10.サイレントフィール
2013年11月05日 23:20
飛び立った先に、いくつかの黒い塊があった。
俺は、その内の1つ、親近感のある塊に接触した。
その瞬間、その塊から光が弾けて――
――次の瞬間、俺は真っ白な世界にいた。
そしてそこには、たった1人、頭を抱えて苦しんでいる知り合い、いや、友達の少女がいた。
雪村流暗記術なる、完全記憶能力を、桜の魔法によって手に入れた少女。
桜が枯れて、その能力を失い、なんでも覚えることが再び出来なくなった。
(私は、自分の記憶障害のせいで、みんなに見放されるのが怖かった――)
杏の心の声が聞こえる。
(誰からも見放されて、親にも捨てられて、私は独りぼっちになった――)
(自分の記憶力がないから、みんなに嫌われた――)
(だから、私はみんなと同じ、いや、それ以上に、誰よりも記憶力がよくなるように願った――)
それが、彼女の人並み外れた記憶能力の正体、雪村流暗記術……。
(そして、私は1度見聞きしたものは忘れなくなった――)
(でも、この世界には、綺麗なことばかりではなく、汚いこともたくさんあった――)
(忘れたかった――忘れられなかった――こんな力があることを、心から呪った――)
彼女の完全記憶の欠点、それは、忘れたいことも忘れられないことにあった。
どんなに辛い過去も、どんなに悲しい出来事も、その当時の残酷さを、いつまでも、まるでその時のように感じ続けなければならない。
記憶に残る、刹那的で、永遠の恐怖。
(おばあちゃんが死んだ時の、親類の罵言雑言は、今でも耳の奥に残って木霊している――)
(私は、あれのせいで苦しんできた――)
(でも、あれがないと、生きていけないよ――)
(私は一体、何を望んで生きればいいの?)
何を望んで、か……。
俺はそっと杏の傍まで歩み寄って、しゃがんだ彼女の頭の高さに目線を合わせる。
「お前は、どうしたい?」
(分からない――)
「それじゃ、俺が提案してやる。俺たちがずっと一緒にいて、お前を支えてやる、ってのは、どうだ?」
(信じられない――怖い――)
「お前、本当に他人との線引きが好きだよな。もう忘れたのか?少なくとも、お前を最初から最後まで信じ続けた、天然成分100パーセントで、お前を友達だといっている、バカ
正直なヤツのことをさ」
1年のスポーツテストの時、杏は茜と共に、1人の女子生徒と接触した。
最初は玩具のようにいじって、からかって、用がなくなったら捨てるくらいの考えで傍にいた。
彼女はそうじゃなかった。
2人はずっと自分のことを応援してると信じきっていて、2人と友達になれるって信じていて、杏の線引きを無視して正面から堂々と接してきて――
杏はそんな彼女の態度に、自分のペースを崩された。
だから、いつの間にか彼女に心を許してしまっていた。
いつの間にか、彼女が輪の中にいた。
不快感はなかった。
むしろ、嬉しかったのかもしれない。
そういう存在が、自分の世界に存在しているということに。
「あいつだけじゃない。俺たちだって、お前が何度記憶を零しても、俺たちがその都度拾ってやる。受け止めてやる。信用しろとは言わない。だけど、俺たちは勝手にお前を信じてる。お前が、俺たちに心を委ねてくれることをな」
杏が、顔を上げる。
その目の周辺は泣き腫らしていた。
とめどなく涙は零れていて、誰かにすがり尽きたそうな表情で、俺を見つめていた。
俺は、その小さな体を、そっと抱きしめてやった。
(ありがとう、光雅――)
「ああ、さっさと夢から覚めて、俺たちのところに戻って来い。俺もすぐに行くから」
杏が光の粒子となって、消えた。
すると、この白い世界は消滅し始める。
この世界がなくなってしまう前に、俺は次の願いへと向かった。
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次の世界は、風見学園の教室だった。
誰もいない、夕日の差し込む、放課後の教室。
窓から流れ込むそよ風に可愛らしい桃色のツインテールをなびかせているのは、学園のアイドルとか呼ばれている、白河ななかだった。
ななかは、俺に気付いて、こちらに振り向き、ばつが悪そうに微笑んだ。
そしてこちらに寄ってきて、俺の両手を重ねて、ななかの両手で包み込むように握った。
(私は、人の心を覗く力を持っていたんだ――)
(知りたい人の体に触れることで初めて見られる相手の心――)
俺は、自分のマインドにプロテクトをかけてるから読まれることはなかったけど。
(相手の気持ちを知ってしまえば、人との係わり合いが円滑に進んで、楽だった――)
(相手のして欲しいことをすればいい、されたくないことは避けてしまえばいい――)
そう、確かに人の心を読むってのは、便利なものなのかもな。
でもそれは、その人間の深層心理のどす黒い部分まで垣間見てしまう可能性だってあったはずだ。
その度に嫌悪感に苛まれ、他人との摩擦を恐れ、更に力に頼るようになった。
そして、今回の力の喪失。
他人とのコミュニケーションの、重要なプロセスを失ってしまった。
(今では、誰の心も見ることが出来ない――)
(誰の気持ちも知ることが出来ない――)
(そんなんじゃ、誰も信用できない――)
杏の時も同じだった。
他人に貶められるのを恐れて、願った。
力を手に入れた。
そのおかげで、過去を生き抜くことが出来た。
普通に暮らすことが出来た。
恐怖から開放された。
しかし、一方で、不安もあった。
身に余る力の、望まぬまでの脅威。
そこまで必要なわけではなかった。
こんな力が人生を狂わせていることに、初めて気付く。
でも、その狂いも纏めて、自分の所有する力で、それをどうすることも出来なかった。
そして、能力を失い、その狂いから開放されて――
自分が全く成長していなかったことに気付く。
能力を得る前と、同じ恐怖を感じて、絶望する。
ななかも、同じだ。
(私は、誰を、何を、どうやって信じればいいの?)
ななかの表情は、俯いて前髪に隠れて見えない。
それでも、伝わってくる気持ちから、辛い思いをしているのだけは、分かったつもりだ。
「ななか、今俺はな、お前になんて言葉をかけようか必死で考えている」
俺の言葉なんて、所詮行き当たりばったりで、打算や心理作戦みたいなことは出来ない。
それでも、自分の本心の中で、かけてやりたい言葉を探すしかない。
「でも、俺は何を話せばいいか、正直、自信なんてこれっぽっちもない」
言葉は、時により相手を傷つける、目に見えない刃となる。
「それでもな、想いを、気持ちをぶつけるには、それを自分で表現するしかないんだよ」
それは言葉であったり、文字であったり、ジェスチャーであったり、場合によっては、拳同士であったり。
「それでさ、少し考えがずれちゃって、すれ違い起こして、喧嘩して、そうやって建設的じゃないこともあるかもしれない」
それが、人間同士が関わる上で、当たり前なことなのだから。
「でも、それが、意外と楽しいんだよな。誰も彼も、相手の気持ちなんて分からない。俺だってそうだ。でも、推測することくらいは出来る。それがたとえハズレでも、表現を重ねることで、お互いにいつか、分かり合える時が、もしかしたら来るかもしれない」
いつもそうとは限らないけれども。
「それに、ななかには、取って置きの表現方法があるじゃないか」
(それは――)
「歌ってみろよ。誰よりも美しく、誰よりも強かに。バンドのメンバーだっているし、いつでも俺たちは聴きに行ってやるよ。その度にアドバイスしたり、拍手したり、感想を言い合ったりしてさ。なんかさ、そう考えただけで、楽しくなってきたな」
俺はななかの両手から自分の両手を引き抜き、ななかの頭に手を置き、そっと撫でてやる。
「また聴かせてくれ。お前のあの、綺麗な歌声を、さ」
ななかは、俺の言葉に頷いて、顔を上げた。
その顔は、今までに見せたことのない、飾り気のない、心からの笑顔だった。
(うん。必ず――)
そうして、ななかも光となって消えていった。
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いくつもの夢を見て回って。
いくつもの夢を鎮めて。
たくさんの欲望が渦巻いていた。
たくさんの悲しみがあった。
たくさんの穢れがあった。
その全てを見て、俺は、人間の深層心理の醜さを、本当に理解したような気がした。
そして、ここにももう1つ。
俺は、その世界に入っていった。
日が暮れて、辺りも暗くなりゆく時間帯。町外れにポツリと存在する、人のいない公園。
砂場には砂の山がそのまま放置されていて。その麓には、スコップで掘ったであろう穴が出来ていて、少し離れたところに、茜色のスコップと、取っ手の部分の付け根が折れた藍色のスコップが落ちていた。
俺はその内の折れたスコップの両端を拾い上げる。
人の気配を感じて、振り向いてみれば、そこには藍が立っていた。
全く持って茜と瓜二つ、違っているところなど存在しないかのように思われる。
まるで、鏡で茜を写しているかのように。
藍は、滑り台のてっぺんを支える柱に、もたれかかっていた。
茜も桜の魔法に関係しているというのなら――
それは恐らく、藍の存在のことなんだろうな。
「こんにちは、光雅くん」
「よう」
軽く挨拶を交わす。
だがしかし、その挨拶には、茜、藍らしい元気がなかった。
「私がここにいるってことは、私がどういう存在か、分かるよね?」
「ああ……」
これ以上に残酷なことはそうない。
本当に、残酷だった。
彼女は――藍は、茜が悲しみの果てに生み出したもう1人の自分、そして、茜が生きていくために必要だった、生きた仮面。
枯れない桜が引き起こした、悲しい奇跡だった。
「私はね、お姉ちゃんには内緒だけど、光雅くんに言いたいことがあったの」
藍は、俯きながら、微笑んでいた。
「でも、その前に、ちょっとお話」
「時間の許す限り、付き合ってやる」
「ふふ、ありがと。……まず最初にね、私は――幸せだった」
その声は、本当に幸せそうな音色を帯びていた。
でも同時に、寂しさが、溢れていた。
俺は、何も言わずに黙って聞く。
「杏ちゃんと会って、小恋ちゃんとも仲良くなって、義之くん、渉くん、杉並くん、そして光雅くんと知り合って、毎日が楽しかった。杏ちゃんと、小恋ちゃんをいじって、杉並くんの騒ぎに巻き込まれたり、一緒に悪巧みしたりして、本当に、お姉ちゃんが私のことを思ってくれてたおかげで、こんなにも素敵な毎日を経験することができた」
茜と初めて会った日、それは、1年のスポーツテストの日だった。
あの日の雨の中、毎日一緒にいる連中と土砂降りの中校庭に躍り出て、馬鹿みたいに笑いあったのを、今でも覚えている。
それから、早3年か。
あれからずっと、藍も俺たちのことを見てきたのだろう。
「光雅くんは、いつも一生懸命だったよね。義之くんとは反対で、義之くんが優しさで接するなら、光雅くんはカリスマと人徳でみんなと接してた。どっちも、カッコよかった。お姉ちゃんじゃない、私の気持ち」
そして藍は瞳を閉じる。
そして一呼吸おいて、声を出した。
「私はね、お姉ちゃんには本当に内緒なんだけど、光雅くんのこと、好きだったよ」
「な……」
「私がね、先らが枯れてもまだかろうじで存在を保っていられたのは、きっと、まだ、想いを伝えられてなかったからかな。でも、これでもう、思い残すことは、何もない……」
違う。
思い残すことなんて、山ほどあるんだろ。
茜のことだって、本当は死ぬほど心配なんだろ。
これからも、見守ってやれよ。
一緒にいてやれよ。
茜の体から消えることになったとしても、そんな見放すようなこと、言うなよ。
「お姉ちゃんなら、茜ちゃんなら、大丈夫。きっと、強くなれるから。元気に、生きられるから」
その自信は、どこから来るんだよ。
俺たちは、まだ本当の意味で知り合ってまだ数週間しか経ってないんだぞ。
俺も死んだってこうやって生きている。
まひるだって本当の肉体はないけど、俺たちと一緒にお日様のような笑顔でいつも笑ってる。
お前だって何か手はあるはずだ!
「私はもう、茜ちゃんにとって、いちゃいけないんだ。私がいることで、気付かないうちに傷を増やしてる。そして、それを必死に隠してる。でもね、もう、そんなことをする必要はないの。しちゃいけないの。だから、私は――」
本当にそれでいいのかよ。
茜がお前に頼りっきりで、知らず知らずのうちに未来の傷を作っているのは分かってる。
でも、それで本当に――?
「お姉ちゃんのこと、みんなで支えてあげて。茜ちゃんが傷ついたら、みんなで一緒にいてあげて。みんながいるから、光雅くんがいるから、私はお姉ちゃんをみんなに託すことができるの」
そんなこと言われたら――
頷くしかないだろうが。
お前のことは、俺と、茜と、それから杏や小恋にも、それぞれの心の奥深くにしっかりと刻まれてるから、いつまでも忘れない。
だから、お前は、茜を支えるという役目を無事に終えたんだから、胸張ってあの世に行ってこい。
そして天国から、俺たちを見守っていてくれ。
「最後に、私から、1つだけ、我が儘」
藍が俺に2歩で駆け寄って、そして――。
唇が、重なった。
長い、長いキス。
藍にとっての、言葉ではない、別れの言葉。
寂しさを、悲しさを噛み殺して。
大切な存在を、生きる者に託して。
だから俺は、それに応えた。
拒否なんて、できるわけがなかった。
そして、藍からゆっくりと離れる。
「ありがと。音姫さんには、言っちゃだめだよ?かんかんに怒っちゃうからね」
「ああ……」
そして、ゆっくりと崩れた砂場の山のほうに歩いていく。
「それじゃ、これで本当のお別れ」
両手を胸の前で握りしめ、そして、涙を流しながら――
「お姉ちゃんのこと、よろしくね!」
藍は笑顔で、消えていった。
残ったのは、その器であった、茜だけだった。
抜け殻のように、ぺたりと座り込んだ、茜しかいなかった。
意識はなかった。
ただ、妹の存在がなくなってしまったことに絶望しきったかのように。
「茜……」
俺も茜と同じ高さになるようにしゃがみ、そっと茜を抱きしめる。
「きっと、藍はどこかでお前を見てくれている。あいつは俺たちにお前を託したんだ。お前ならみんなと一緒に強く生きていけるって。だからさ、あいつのそんな期待に、応えてやろうぜ」
茜の反応はない。
それでも俺は、伝え続ける。
「いなくなるんじゃない、ちょっと遠くに離れるだけなんだよ。また会えるさ。それまで少し時間がかかるけどさ、それまでは、俺たちと一緒に、笑っていてくれないか?お前が落ち込んでると、みんなも元気がなくなる。そして何より、藍がそんなお前を見て、不安になっちまう。だから、な?」
腕の力を少し籠めて、抱きしめる力を強くする。
「自分で生きてみるんだ。お前は花咲茜だ。ほかの誰でもない。お前らしい生き方を、自分で探してみろよ。なんせ、お前らは、雪月花は、最高の連中揃いなんだからさ」
意識のなかった茜が、こくりと頷く。
そして、光の粒子となって、俺の腕を、すり抜けて消えていった。