01.それはそれは摩訶不思議な出会いで
2013年11月06日 00:29
夕日の日差しの差し込む放課後の教室。授業の終わりを知らせる、本日十四回目のチャイムを何となく耳に入れて、机に突っ伏す。腕をクロスさせ、顎が右手首の上辺りに乗るような配置。実に楽だった。
次々とクラスメイトに挨拶をしながら教室を去る知り合いを眺めながら、脇に掛けてある鞄に手を伸ばし、机の中のテキストやノートを放り込んでいく。
いつも通りの放課後。何事も起こらない日常。退屈で、慣れきっていて、それでいてしがみついていたい毎日。だからこそ安心していたのかもしれない。
部活には入部していない。帰宅部だった。運動は得意ではなく、どちらかというと図書館で本を読んでいる方が好きだし、周りの友達からもそういう印象は持たれている。引きこもりや独りぼっちというわけでもなく、クラスメイトとの交友も深めてはいるが。
教室を出て、左方向に廊下を進む。昇降口からは遠回りになるが、帰宅部としてのほんの少しの暇潰しに、帰宅前に校舎を軽く徘徊するのだ。たまに新しい発見もあって面白いからやめられない。
リノリウムの床を自分の足の上靴が叩き、軽快なリズムを刻む。左の掌は壁を擦りながら、ただ何となく廊下を歩く。
少子化の影響か、一学年が保有するクラス数もこの学校では少しずつ減ってしまい、各学年が使用する階の端の方の教室は、誰も使用していなかった。それにあまり使われずに埃を被っていることもあり、誰かが屯していることもない。何となく、そっちの方向に足を運ぼうとして――――止めた。
廊下の半ばに設置された掃除用具入れのロッカーの隣、水の入った防火用のバケツの中に、外靴が入っていた。調べるまでもなく女子用の靴で、急いで拾い上げたものの、既にびしょ濡れで履けるような状況でもなかった。
ポケットからハンカチを取り出し、出来るだけ水気を拭き取る。完全にとまではいかなかったし、水分で肌が触れたところが冷たく感じるが、乾かす分には効率が良くなっているだろう。
しかし――――この靴は一体誰の物なのだろうと、思案する。
黒い靴には、名前は書かれていない。見ただけではそれが誰の物か皆目見当もつかなかった。
これ以上、関わるのはやめよう――それが、最終的な結論。
とりあえずここにその靴があったことを示すためにバケツの横に靴を置き、再び空き教室に向かって足を運ぶ。軽く読書でもするのも一興だと思い、目で確認することなく鞄の中にある文庫本を手で確認する。最近有名な著者が執筆したベストセラーの小説。三割くらい読んだが、十分に面白い。
空き教室は基本的に開放されており、誰でも自由に出入りすることが出来る。とは言え、その不潔さもあって、ほとんど誰も近寄らないところであるが。
スライドドアの窪みに手を掛け、ゆっくりと右に引く。
教室に足を踏み込むが、違和感があった。
いつもに比べて、清潔だったのだ。
そこまで頻繁に出入りしているわけでもないが、たまに利用していたのだから分かる。誰かが簡単に掃除したのだ。床もあまり埃っていなかった。
教室を見渡せば、そこには、既に先客がいたようで。
教室の後ろに纏めて重ねられた机の壁。それを一セット引き出して座り、窓の外を眺めている女子生徒。風が彼女の長い黒髪をなびかせていた。
古めかしく色あせた光景に、一際輝きを放つ女性という、幻想的な光景。あまりにも美し過ぎて、目を奪われ思考が停止してしまっていた。
一方で、女子生徒はこちらに気付く。
「おや、こんなところに珍しくお客さんか」
髪を揺らしながらこちらに首を回し、何も感じていないといった風な表情でそう呟いた。
紛れもない美少女、それが最初の感想。
見た目で判断するのは不謹慎だろうが、男であるのだから仕方がなかった。
「えっと、失礼しました……」
先客がいるとは思っていなかった。これでは何のためにここに来たのか、その目的を達成することも出来なくなるし、かといってここに居座るのも居心地が悪い。自分自身も、そしてきっと彼女も。
「待って」
呼び止められる。抑揚のない声は教室に十分響き渡った。
女子生徒はその白く細い指先でこちらに来るように促し、椅子を用意した。
着席を許可されたのでよく分からないままにその椅子に座る。
「えっと……」
「キミは、どうしてここに来た?」
女子生徒は別に疑ってはいない。警戒もしていない。その質問はただの好奇心だった。
「ちょっと、読書でもしようと」
「本が、好きなのかい?」
再び質問。彼女は何故か自分に要らぬ好奇心を持つ。不思議な人だと思った。
とは言え答えない理由もないし、正直彼女から感じる妙な圧力というか、オーラに押し負けそうで、質問には答えることにする。
「えっと、小説が好きです。シェイクスピアとか、ドストエフスキーとか、日本人なら太宰治とか……」
「なるほど、キミは思った以上に博学なのだな。生憎私はそこまで詳しくはないが……本は嫌いではない」
正直に答えたら、何故か褒められた。彼女が意図的に褒めたのかどうかは分からなかったが、きっと褒めてくれたのだろう。わざわざネガティブに受け止めることもないし、そういうことにしておく。
聞かれるばかりも面白くないので、こちらからも質問してみた。
「……どうして、ここにいるんですか?」
彼女が最初に繰り出した質問と全く同じ。しかし、どうしても知りたかった。
「何、大した理由ではないさ。靴を隠されて、帰れないところだったんだ。人の眼がある時間に探すのは流石に羞恥があるものだから、ある程度遅くなってから探して帰ろうと思い、それまでここで時間を潰そうと思っていたところだ」
女子生徒は少し苦笑いをして、こう付け加える。
「ついでに汚かったから、簡単に掃除させてもらったよ。余計だったか?」
「そんなこと、……ないです」
慌てて頭(かぶり)を振る。女子生徒が不安がっている表情を、何故か見たくないと思ったからだった。その仕草に、女子生徒は微笑む。
「そう言えば、靴、なかったんですよね。僕、多分その靴、見つけました」
「ほう……」
「そこの廊下の、防火用バケツの中に、水に沈んでました」
「そうか……」
また、特に何も感じていないかのように呟く。恐らくいじめられているであろう状況に、一切の動揺も見せなかった。頻繁に起こるようなことで、慣れてしまっているのだろうか。そう考えると、何故か居た堪れない気持ちになった。
少し待っているように言うと、教室を飛び出す。
先程のバケツの隣、黒い靴を手に持って教室に戻る。
「これで、あってますか?」
女子生徒は靴を受け取り、見回して確認する。そして一回頷いた。
「間違いない、私の靴だ」
「良かった……」
「すまなかったな、手間を掛けさせて」
どこか、申し訳なさそうにする彼女を見て、何か、何か胸を突くモノがあった。それが具体的にどのような感情かと問われても、答えられそうにもなかった。
「あの……」
言葉をかけようとして、そこで初めて気が付いた。彼女の名前をまだ一度も聞いていなかったうえに、自分の名前もまだ教えていなかった。
「ああ、天音桜火(あまねおうか)、二年だ」
その時、自然な流れで、初めて彼女の名前を知った。美しくて、幻想的で、そして力強い名前、そう、彼女の第一印象と全く変わりないその名前に、少しだけ引き込まれた。
これが、彼女との出会い。全ての始まり。少しずつ、しかし確実に変わり映えのない日常から、目まぐるしく変化していく非日常へと引き込まれていく、序章の中の序章だった。
◇ ◇ ◇
この、ありふれていそうで実は滅多にお目に掛かることの出来ないような奇妙な物語の語り部、いや、主人公と呼ぶべきか――――自分のことを主人公と呼ぶのは躊躇いがあるが、自分の立ち位置がそうなっているのであれば仕方ない。
聞きたくもないし、聞いても意味のないようなことだろうが、一応自己紹介をしておくと、僕の名前は延暦寺灯(えんりゃくじともる)という。どうだ、どこにでもいるようなありふれた名前で、むしろ聞いた君たち読者諸君が恥ずかしがるような名前だろう。参ったか。
私立羽ケ崎高等学校の新入生、すなわち一年で帰宅部、趣味は放課後の学校の徘徊といった、自分で言うのも惨めだが、近づいてはいけないような人種なのかもしれない。
とにかく、これから始まる摩訶不思議ストーリーが僕を中心に進んでいくことは予め了承してもらいたいと思う。不快だろうか。そうでないと信じたいものだ。
あれから数日、その空き教室に例の女子生徒――天音桜火は姿を現さなかった。そこまで執着する必要もないのだが、何となく彼女と出会えないのが惜しいと、心の隅で何かがくすぶっているのだ。大変不快である。
とは言え、彼女は二年であり、僕は一年である。そもそも彼女が二年生であるのに、一年の階層お教室を使うことがおかしいのだ。期待して呆けている自分が馬鹿だとも言えなくもない。
本日も不在、その事実を真摯に受け止めて、昇降口へと向かう。所々教室から部活動の喧騒が聞こえるが、どうでもいい。興味ない。僕は帰る。それだけだ。
自宅通いで家族と暮らしている僕は一人暮らしをしている少数の生徒と比べて裕福な暮らしをしている。だから、今日の夕食のおかずが何だろうかと呑気なことを考えて腹を空かせながら帰路に着くことが出来る――と思ったら大間違いだ。
残念ながら夕飯の支度は僕と姉が担当している。何故なら、父も母も、夜遅くまで仕事をしているからである。帰ってくるのは大体九時半以降で、帰ってきたら既にクタクタで、どちらもこれから料理が出来るというほど体力は余っていない。だから僕たちがしなければならない。今日は僕が買い出しで姉が料理当番である。
姉は自宅通いの大学生で、家事は基本的にそつなくこなす。成績も優秀だったが、地元で教師になりたいとのことで、ここで教員免許を取るための勉強に励んでいる。何とも自慢な姉だろうか。
さて、買い物を済ませてスーパーを出、帰路に着くとする。
一番安いところを狙って買い出しに出かけているので、正直ここは家から結構遠い。徒歩で通学をしているものだから、片道一キロはもやし体型には酷である。そしてこのスーパーからは大体一キロ半。自転車を盗んででも楽に帰宅したくなる。
とは言え窃盗を働いて警察の世話になるわけにもいかないので、今日のところはいつもの近道を使わせてもらうとする。
少し裏路地を通ることになる。この道は少しばかり手入れが行き届いておらず、ごみが散乱していたり妙な液体が流れていたりと大変不潔な抜け道なのだが、ここを通ると大変スーパーまでの行き来が楽になるのだ。
レジ袋の中身を見て、今日は姉は何をつくるのだろうかと楽しみにしていると、ふと視線を上げた時に、大変拙い状況に巻き込まれていることに気が付いた。
「買い物した後っぽいけど、金は持ってるだろ」
「いやむしろ買い物した後だって分かるから金結構持ってんだろ」
三人くらいの不良に囲まれた。
しかも会話から察するに、恐らく動機は恐喝。対抗する手段もなければ、助けを呼べるような場所でもない。万事休すか。携帯に手を伸ばすも、連絡しようとしたことがばれた瞬間何をされるか分かったものではない。
「キミ、俺たちちょっと金に困ってんの。ダチがちょっと金に困っててさ、助けてあげたいから少し恵んでくんない?」
「大丈夫大丈夫、何も悪いことなんてないから、ほら」
「そーそー、だから早く、な?」
三人目の男、金髪のピアス男が胸倉を掴み上げる。そのせいで彼の拳が喉に当たり、胸が苦しくなる。恐怖と物理的干渉で呼吸が出来なくなりそうだ。
何とかじたばたと無駄な抵抗を試みるも、文字通り、無駄なことだった。
「ほら早く、財布どこだよ」
鞄を漁り始めた。本当に勘弁してほしい。本気で泣き出しそうになったその時だった。
「その子を放してはくれないだろうか」
凛とした声。かつて聞いたことのある声。何となく――――何となく聞きたかった声。その声の主の方を向くと、そこには一人の美少女が佇んでいた。
「うわ、超美人」
「どうしたの? こいつのカノジョ?」
「んな訳ないだろ、こんなひょろっちぃのにカノジョなんて出来る訳――」
「放してはくれないだろうか」
天音桜火。彼女の凛とした声は、もう一度はっきりと路地裏に響いた。その表情は、よく分からない自信に満ち溢れていて。
「は? 何言ってんの?」
「その子を解放しろと言っている。日本語が通じないのであれば英語でもう一度話してやらんこともないが」
その挑発は、間違いなく不良たちを刺激した。
体格的に見ても、人数で見ても、どう考えても天音さんの方に喧嘩で勝てる道理はない。一刻も早く逃げてほしいものだった。
そんな僕の願いは届くこともなく、不良の一人は彼女の方へとゆらゆらと近寄っていく。気持ち悪い媚びた笑みと共に。
「分かってる? 状況を理解してないと、大変な目に合うよ?」
「それはこっちの科白だ。こんなことが許されるとでも思っているのか?」
男の厭らしい笑みを物ともしないで、天音さんはその男をじっと見据える。男は全く動揺しない目の前の美少女に苛立ちを感じ始める。
「あーそう? だったらこれから何されても文句ないよな? んじゃあ大人しく俺たちと遊ばれて――」
男が彼女に覆いかぶさったその時だった。
一瞬過ぎて何が起こったのか把握しきれなかった。それだけ、今の数刻で現実離れしたことが起きたということだった。
男は、壁に叩きつけられて完全に気を失っていた。
対する天音さんは、膝上程の丈のスカートを、埃を取るようにふわりとはたき、自分の優勢を見せつけるかのごとく笑みを零していた。
「てんめぇ、何しやがった!?」
仲間の男の一人が逆上して彼女に襲い掛かる。次の一撃は、この目である程度捉えることが出来た。
男が彼女を押さえようと両腕を前に伸ばし、覆いかぶさろうとした瞬間、彼女は左足を軸にして背中の方向に一回転しながら腰を落として身を屈め、絶妙なタイミングで彼の鳩尾に華麗に蹴りを加えた。その一撃で、男は五メートル程吹き飛ばされる。
彼女は再び自然体に戻ると、残りの一人に視線を向けた。
その男は身を震え上がらせながら僕の下から一目散に逃げ去ってしまった。
僕は腰を抜かして地面に座り込んでしまっていたが、天音さんはそんな僕に対してゆっくりと歩み寄り、そして手を差し伸べる。
僕はその手を少し躊躇いながら握り締め、力を借りて立ち上がった。
「えっと、ありがとう……ございます」
「いや、大したことではない。この間の靴のお礼だ。むしろ感謝するのはこっちだ」
彼女は優しく微笑んで、地面に落ちた、食材の入ったレジ袋を拾って僕に手渡す。今日の食材に卵が入ってなくて本当に良かったと心から思った。
「あの、失礼ですけど、どうしてここだって分かったんですか?」
その登場の仕方は、偶然だと言われればそれまでだが、タイミング的にどこか不自然であるようにも感じられたのだ。
「簡単さ。私はずっと君を見ていたのだよ。そうだな、ストーカーと思ってもらって構わない。私は一度興味を持った者には執着してしまうタイプでな、この間君と出会ってから君のことが多少なりとも気に入ってしまったのだ。迷惑ならやめるが……」
また、あの不安そうな顔だった。
ストーカー行為はご遠慮願いたいのだが、今回はそのお蔭で助かったのもまた事実である。だから、ここではっきりとやめるように言うことは、僕には出来なかった。
「わざわざストーカーみたいなことするなら……いえ、何でもないです」
思わず口から出そうになった言葉は、意地でも喉の奥に食い止めておいた。いくらなんでもその先は拙い。何が拙いかというと、今後の学校生活に様々な支障をきたしかねない。
「何、そうか、わざわざストーカー行為をするのなら、堂々と君の隣を歩けばいいのか」
彼女は僕が一瞬考えたことを当ててしまった。
やってしまったとしか言いようがない。
だがしかしまぁ……彼女の――――天音桜火の何とも楽しそうな笑顔を見ていると、そんなことでさえ許してしまえそうな自分がいて、何とも言えない気分だった。