04.残念だけどここから先は一方通行

2013年12月12日 15:27
 轟雷の鳴り響く丑三つ時。
無限の土砂が空から降るように地を穿つ雨は、夜闇を更に暗く沈める。
 人通りもなければ、車通りも全くない道路。
 漆黒のレインコートを身に纏い、塀に沿って道路を歩く者がそこにはいた。
 招かれざる来訪者。終わりを告げる者。俗称、死神。
 足音も立てず、豪雨とその轟音に身をひそめ、淡々と冷たく前へと進む。この日、新たなる罪人を地獄の底に叩き落とす、断罪を加えるために。
 雨に打たれながらも、しなやかに体の体重を移動させ、とある建物の塀へと登り、木を伝ってベランダへと上がる。要領よく音を鳴らさずに窓を割り、鍵を開ける。部屋の中へと侵入し、そこで部屋の主と遭遇した。
 
「お、お前、誰だ!?」
 
 招かれざる来訪者に男は驚愕の色を隠せないでいる。
 来訪者は懐からゆっくりと一振りの刀を抜き放ち――
 
 ――閃
 
 白い残光を残し、刃は男の胴を抜き去る。
 血飛沫を上げることすら許されないまま、男は前のめりにバタリと音を立てて倒れ込む。
 来訪者のレインコートには、返り血一つ浴びせられてはいなかった。
刃から滴り落ちようとする血を冷静に布で拭き取り、再び鞘へと戻して懐に隠す。コートのフードに隠れた表情には、一切の感情がなかった。迷いも、恐れも、狂気も、殺意も。淡々と、ただ淡々と一連の作業を終え、部屋に細工を施してから、来た窓から再び出ていく。
 轟雷が鳴り響き、土砂降りの雨が地を穿つ夜闇の道路を、来訪者は再び戻っていった。
 それは、三つ目の断罪。
 それは、繰り返される粛清。
 そして、それはもう、どれくらい前の話だったのだろうか。
 その事件で、犯人への糸口となる証拠は、何一つとして見つかることなく、真相は闇の中へと葬られた。
 
◇ ◇ ◇
 
 人は万物を比較することによって認識するということを可能としている。
 生まれる前の赤子は、自身と自身以外の存在、つまり外界の存在すらも区別出来ないと言われている。それが母体から離れ、産声を上げることによって初めて、内、すなわち自分と外、すなわち自分以外の世界の区別、比較が出来るようになるらしい。
 人や物の認識だってそうだ。自分の脳内の記憶にセーブされた情報を基準としてそれと比較をすることで、目の前に存在して視界に入っている人物が誰なのか、何なのかを知ることが出来る。音の高低、時間の経過、人間が感じうるありとあらゆる感覚は全て比較になっているのではなかろうか。
 そんなことをたった今、僕は考えていた。
 天音さんの部屋で眠り、翌日の気分が優れている間に帰宅し、姉の尋問を回避し、自宅のベッドで横になりながら、くだらないことを、そして彼女のことを考えていた。
 僕は彼女をどう思っているのだろう。彼女は、他の僕が接している人間とどう違うのだろう。どう比較しているのだろう。どうにも最近、彼女のことを考えている機会が多くなっている気がした。
 すぐにいつも、一つのワードが脳裏に過ぎる。
 
――恋
 
 思春期真っ盛りの男子だから、この発想が出てくるのは仕方ないことだと思った。だが、実際のところはどうなのだろう。
 僕は天音さんに守られっぱなしで、彼女は僕といることで楽しんでくれてはいるが、その実僕は彼女に何もしてやれていないのだ。僕は彼女に守られていた、何度か危機からも救われた。それによる吊り橋効果がこの感情の原因なのかもしれないと、安易な発想を阻害しようとする。
 よく考えると、恋というものは意外と難しいもののようだ。
 それが本当に恋愛感情なのか、はたまた尊敬の念なのか、それとも別の何かなのか。その感情に線引きすると、どうにも矛盾点というか、どう引いても違和感が発生してならないのだ。異性を大事に思う、それだけで恋という認識になり得るのだろうか。本当にそんなものでいいのだろうか。
くだらないことだ――――最初から分かり切っていることだった。
 結局は考えても考えても堂々巡りで、一歩たりとも前に進めやしない。いつまで経っても現状維持で、どこまで行っても何も変われない。それが僕なのだ。
それでも、やはり考えるのは、天音さんのことだった。
 
「好きって、どう言うことなのだろう」
 
 精神論者はどう言うだろう。哲学者はどう説明するだろう。心理学者はどう解説するだろう。その答えは、突き詰めればそれこそキリスト教の神の愛の話くらいまでは遡ってしまうのかもしれない。キリストか、あるいは、十二使徒――マタイ辺りがいいだろうか――に会ってみればもしかしたら分かるのかもしれない。
 そうでもないか。彼らに会っても神様がどうとかこうとか興味の欠片もない話を延々とされるだけに違いない。残念ながら僕は一般的な日本人と同じような八百万の神のなんちゃって信仰者なのだ。その気になればクリスマスでキリストを信仰し、その気になれば死んだ後には仏教で成仏するのだろう。都合のいい時に様々なものに神様がいるとでっちあげて拝んだりして奇跡を信じたりなんかしてでも実際のところはあまりあてにもしてなくて、といった具合な普通の日本人なのだ。
 話が逸れたか。逸らしたかったのかもしれない。
 僕の感情の因果関係を大きく変動させてくれる存在、天音桜火先輩。それは少なからず僕の人生をよき方向へと導いてくれている。尤も、人生のよい方向、悪い方向がどのような進路なのかは、人によって違い、信仰によって違い、正義の在り方によって違うのだが。
 とにかく、僕は天音さんと出会うことによって大きく人生を変えられたと言っても過言ではない。僕が、彼女を他の人間とは違う認識で見てしまっているということは、とうの前から気が付いていた。
 最も大事なことは、彼女がどう思っているかである。彼女は僕と一緒にいて楽しいと言ってくれている。それは友達として、だろうか。それとも異性として、だろうか。はたまた僕のことをからかっているだけであったりもするかもしれない。僕はやはり彼女のことを何も分かっていないのだ。彼女もまた、僕に何も教えてくれない。何も分からせてくれない。釣れない、という言葉はよく言ったものだと思う。
 
 
 
 翌日には、風邪は完全に快復していた。体がだるいこともなく、節々が重い痛みに襲われることもない。頭痛もなければ、ふわふわしたような感覚も消え失せていた。
 昨日は姉が授業をサボって早めに帰宅し、僕の看病をしてくれていた。姉はいつまで経っても僕に優しく、大切にしてくれていた。姉のことは苦手だが、やはり大好きなのだ。家族として、彼女のことを強く尊敬出来る。自慢の姉だ。
 母の作ってくれていた弁当を鞄に仕舞い、学校へと通学する。
 いつもの通学路を歩きながら、考えていたのはやはり天音さんのこと。もう病気なのではないかと思うくらい頭の中はお花畑だった。これだけ異性のことが頭の思考の内大半を占めること自体、青春出来ているということではなかろうか。少なくともこれまで人生でこんなことを経験したことはない。何となく気分が高揚していることは、やはり自覚出来ていた。くだらないと思いながら、それでも顔は綻ぶ。本当に阿呆らしい。
 体育祭も近く、HR(ホームルーム)では出場競技についての話し合いが進んでいた。
 羽ケ崎高校の体育祭は、チーム対抗の大会となっている。学年ごとに、赤、白、黄の三つのチームに分かれ、様々な競技の成績で点数を勝ち取り、その合計で勝敗を決する大会、らしい。初出場なので詳細や雰囲気はよく分からない。この学校は一学年六クラス存在し、つまり一学年一チーム二クラス出来ることになる。もしかしたら僕のクラス――白組は天音さんのクラスも参加しているかもしれない。もしそうなれば、何でも出来る彼女がチームにいれば百人力だろう。それとも、彼女はこういった行事は苦手だろうか。興味がないだろうか。正直、活躍する彼女を見てみたい気もする。
 
「延暦寺、お前綱引きでいいよな?」
「うん、別にいいよ」
 
僕のような運動神経皆無な人間は森に隠される。大勢の人間が必要ということは、ぶっちゃけた話一人ひとりの力さほど問題ではない。全体の総力が問われてくるのだ。そこに紛れ込ませておけば勝手に始まって勝手に終わってくれる。中学の時も似たような手法を用いてこういった行事は回避してきた。
 情けないと思われるだろうが、それが僕の生き方であり、出来ないことは出来ないと割り切り、僕に出来ることを模索して潜り込む。それも、賢い生き方ではないだろうか。
 
「それじゃ次、百メートルリレー決めまーす」
 
 リレーは体育祭の花形、メインと言っても差し支えない。つまりはここに本命を注ぎ込むのだ。陸上部か、野球部か、ラグビー部か、とにかく足の速い、運動神経のいい人間をそこに充てる。案の定、僕のクラスでは推薦でクラスメイトの陸上部が担当することになった。新人戦では好成績を出したらしい。期待は大だ。
 その後も騎馬戦、借り物競争、障害物競走など、次々と参加競技を決め、HRは終了した。
 
 昼食の時も、心ここにあらずだった。
 ずっとぼうっとしていて、クラスメイトの会話が頭に入ってこない。
 
「なぁ、聞いてるか、延暦寺?」
「……え?」
 
 突然呼びかけられて、曖昧な返答しか出来なかった。今までどんな会話をしていたのか、その文脈さえもつかめない。彼らは今、何を話していたのだろうか。
 
「お前、今日なんか様子変だぞ?あれか、恋煩いか?」
「ああ、天音先輩な」
 
 いつもの悪ふざけが、今日に限っては図星だった。ここれだけ軽いノリでこの話題を引っ張り出されて遺憾ではあるが、それでも表に出してはいけない。自分でも片が付いてない問題を、不用意に他人に広げてしまっては、問題が収拾のつかないものになってしまう。それだけは何としても避けたかった。
 
「だからその話はもういいって。前提条件が違うと何度言ったら――――」
「でもお前向こうは脈ありなんだろ?」
 
 そんなはずがない――――こともない。天音さんは普通に僕に対して異質な興味を示してくれている。それが何を意味しているのかは分からないが、少なくとも天音さんにとって僕が特別な存在であるということは何となくだが分かる。でもそれが、仮に森上さんと同じ立ち位置であるのだとしたら、それは恋愛とは程遠い、別の何かなのではなかろうか。
 
「そんなの、分からないよ……」
 
 その言葉は、本心から出てきたものだった。僕は、何も分からない。もしも僕が天音さんのような、何でも出来るような人だったら、とうの昔に全てを知って答えを出せていたのかもしれない。無知とは本当に煩わしいものだ。
 
 
 
 
「あ、しょっぱい」
 
 僕が作った料理を、姉が駄目出しする。いつもなら美味しいと言ってくれるはずの姉が、今日に限ってはそう言ったのだ。それほどまでに駄目だっただろうか。不手際をやらかしたつもりはないのだが。
 
「なんかさ、最近灯って何かぼんやりしてるよね」
 
 それは、確かに僕は最近考え事ばかりしている。天音さんのことを、いつまでもうじうじと頭に浮かべて解けもしない問題をいつまでも解こうとしている。
 
「味に出てるわよ。焦ってるね、灯」
「……かもしれない」
 
 こういう時、姉の言葉は大抵真実である。僕がいくら反論したところで、姉はいつも僕のことを理解してものを話す。だからいつも本質を見抜いてしまう彼女が少し苦手だ。
 
「悩み事でもあるなら、言ってごらん。お姉ちゃんが聞いてあげる」
 
 ニコニコと朗らかな笑みを浮かべて、姉はそう言った。姉として頼られていることが嬉しいのだろう。こういうところは未だに子供っぽいというべきか、昔から変わっていない。姉は、どのような答えを提示してくれるのだろう。
 僕はことの経緯を全て話し、姉はそれら全てを笑うことなく、茶化すことなく、ただ静かに最後まで聞いてくれていた。こういう時、姉は親身になって相談に乗ってくれる、やはり尊敬出来る人なのだ。彼女がいなければ、今頃僕はどうなっているのか分からないくらいに。
 
「まどろっこしいな」
 
 開口一番の感想はそれだった。姉は自分のエピソードを、回りくどいの一言で一蹴してしまったのだ。しかしそこはぐっと堪える。彼女は彼女なりの考えがあるに違いないのだから。
 
「そもそも、何でいちいち答えを出す必要があるの?」
「分からないと、何も出来ないじゃんか」
「分かんないから行動を起こすものでしょ? 灯は臆病になってるだけだと思う。話を聞いてみても、灯がその天音さんって人が好きなのかどうかはよく分かんなかったし、天音さんのこともよく分かんない」
 
 そこまでは、僕と姉の共通認識。僕は確かに躊躇していて、彼女のことを何一つとして知り得ることはなかった。
 
「でも、灯も天音さんも、間違いなくお互いを想い合ってる。だったらよく分かんなくてもそれが恋なんだって仮定して、ツッコんじゃえばいいじゃん。もしかしたらそこから本当に好きになるかもしれないし」
「でも、もし天音さんがそれを望んでないとしたら――――」
「それを考えるのは恋愛話でナンセンスだよ。当たって砕けろって言葉もあるくらいに、自分の気持ちを、相手がどう思っていようが真っ直ぐに伝えることが大事なんだよ。成功すればそのままハッピー、駄目だったら駄目でもしかしたらそれから相手の方が意識してくれるかもしれない、そういうものだと思うな、私は」
 
 何となく、そう、何となく道が見えてきた気がした。天音さんが僕と一緒にいて楽しんでくれるのであれば、僕は彼女の傍にいてあげたい。僕は何も出来ないけれども、彼女の隣に存在していることくらいは出来るはずだ。彼女がそれを望んでいればの話だが。
 天音さんは何でも出来る、何でも出来るからこその、精神的な不安定があるかもしれない。だから僕みたいな駄目人間に興味を持って接するのだ。誰かと一緒にいたいのかもしれない、本当は。そして、彼女は僕や、もしかしたら森上さんと一緒にいることで、何かを探しているのかもしれない。僕は彼女の傍で、一緒にそれを探してあげたい。例えどれだけ難しい答えだったとしても。僕がどれだけ無力だったとしても。
 
「青春してるね、灯。あ~あ、私も彼氏ほしーなー」
 
 拗ねたようにそう言いながら、姉は僕の料理を再び口に運ぶ。そして表情を少しだけ歪ませてこう続けた。
 
「今度、食べるこっちが幸せになれるような美味しい料理、作ってね」
 
 すぐに、姉の意図を察した。その意味を理解し、僕はすぐに動悸が激しくなる。そんな想像をさせられたら、嫌でも気分が高揚してしまうではないか。それでもやはり、そのワンシーンが待っているかもしれないことが、少しだけ嬉しいと感じていた。
 
◇ ◇ ◇
 
 体育祭当日。
 姉の作ってくれた少しぜいたくな弁当を持って学校に行った。
 教室では既に生徒たちがやる気に満ち溢れており、活気が溢れていた。僕自身勝ちたいと思うことには思うし、クラスやチームの勝利には貢献したい。したいだけで出来ないのが事実である。
 着替えを済ませ、グラウンドに出る。
 既に沢山の生徒が準備をしており、軽く体を動かしたり、式の進行の確認をしていたり、テントなどの配置をチェックしたり、用具を手入れしていたりと、既に体育祭の空気は温まり始めている。
 そんな中、僕はグラウンドの隅の方に一人の女性を見つけた。いつも見慣れた、しかし新鮮な姿の彼女。
 天音さんの体操服姿。そして白い鉢巻をその額に巻いている。長くてきれいな黒髪は、黄色いリボンで後ろに束ねていた。いつもと違うスポーティな姿に何だか胸が高鳴る。
 
「やぁ、少年。キミも白組だったのか」
「そうみたいですね。天音さんは、体育祭とか、群れる行事は好きなんですか?」
 
いつも通りに僕を迎えてくれる天音さん。何も変わっていないそれに、情けないながらも安心してしまう。
 
「いや、そうでもないな。見ての通り、私はいつも独りだ。群れるのは楽しくない」
 
 自分のことながらに苦笑しながらも、それでも少しだけ僕は違和感を感じた。それならば来なければいいのではと。
 
「それでも私はキミが頑張っているところを見てみたい。だから今回は参加した」
 
 今回は、ということは、去年は参加しなかったのだろうか。それに、僕は頑張ると言っても綱引きしかしないのだ。後はグループ応援だけ。特に目立つことはないのだ。天音さんのほんの少しの期待を裏切ってしまうようで何だか悪い気がした。
 
「天音さんは、何の競技に出るんですか?」
 
 素朴な疑問。体育祭などの人が群れる行事が嫌いな彼女は、何か今回、種目に出場するのだろうか。何でも出来る天音さんが他の生徒を圧倒する姿というのも、見てみたいような気もする。
 
「ああ、グループ別対抗リレーだよ。折角今年は参加するのだから、何か競技に出てみようと思い、立候補してみたのだ」
 
 空気は最悪だったがな、と付け加える。確かに問題児として学校に多少名の知れ渡っている天音さんがクラスで自ら率先して物事を引き受けると、他の生徒も少しばかり疑念を抱いてしまうのも容易に想像出来る。
 僕はただ、そんな彼女に、こう一言伝えた。
 
「頑張ってください」
 
 もしかしたら、皮肉に聞こえたかもしれない。でも、僕は本心から言ったつもりだ。もし彼女が誤解して捉えていようと、僕はそれでもいいと思った。
 
 
 
 開会式が終わり、各グループはそれぞれのテントの下に戻る。競技の出番がすぐそこまで迫っているクラスや生徒は準備に急ぎ、そうでもない人々はテントの下に座って水筒の飲み物を口に含みながら雑談に勤しむ。
 無論、僕は後者である。綱引きがあるのは午前十一時頃。仮に予選突破で午後の部があったとしても今はさほど関係ない。のんびりと見物することが出来るのだ。
 男子生徒はあちこちでストレッチをしていたり、女子は女子で体操服でありながらもどこかお洒落をしていて、全体的に気合いが入っているような、窮屈な雰囲気だった。僕には少し重過ぎる。
 僕は一旦その場を立ってテントを離れる。向かう先はテントの後ろ側、少し広くなっているところの更に端、そこにいる女子生徒のところまで歩み寄った。
 
「天音さんのリレーも、午後の部でしたよね」
「そうだな。キミの綱引きは午前の終盤だったか」
 
 何故それを知っている――――ぐっとこらえて呑み込んだ。どうせ彼女のことだからどこかで情報でも手に入れたのだろう。それか、僕の性格や競技の特徴から判断して推測したか。いずれにせよ、綱引きの身に出場することがばれたのは、些か恥ずかしいものだった。
 ピストルの音と共に、第一走者が一斉に地を蹴る。百メートル徒競走である。
 砂埃を後方にひたすら前方の敵を見据え、先頭は後方を注意しながら必死に前を向き、全力を以ってトラック内を激走する。
 戦闘は赤組。続くように白、再び赤。この徒競走は順番ごとに各グループから二名ずつ走者を出し、その優劣を競うものである。だからマッチによれば同じグループが立て続けに一位、二位を獲得することもまたありうるのだ。
 順位は変わらないまま、先頭がゴールテープを切った。そして立て続けに生徒がゴールしていく。後半の生徒が悔しそうな顔をして、トップを飾った人間がガッツポーズを作って。
 そして、次のピストルが鳴り響く。また、六人の生徒が地を強く蹴る。
 
「今日の昼、いつもの空き教室で待っているぞ。体育祭の日くらい、構わないだろう」
 
 それは、あまりにも唐突なお誘いだった。個人的にも天音さんのことを意識している僕にとって願ってもない話だったが、それでも多少は動揺してしまうものなのだ。察してほしい。
 
「それは……構いませんけど」
「それと、もう一人、連れて来てもいいか?」
 
 その段階で、敢えてなのかどうかは分からないが、誰かということを彼女は伏せた。でも、大方察しはつく。天音さんのことを快く思っている人物は、僕にとっては一人しか知らない。そして彼女もまた、天音さんは人と関わろうとしないと言っていた。すなわち彼女以外には考えられないだろう。
 
「森上さん、ですかね」
「ほう、知り合いか」
 
 少し驚いたような表情をして、そして話が早いと再びその顔に自然な笑みを戻す。彼女が来ることには特に問題はないのだが、森上さんは性格が割と僕の姉に近いような気がする。下手したらからかわれる対象に僕がされかねない。大丈夫だろうか。
 
「ええ、まぁ。天音さんがきっかけですけど」
「ほう、当人である私を差し置いてどんな話をしていたのやら」
 
 からかうような表情で顔を近づけてくる。いくらなんでもそれは拙いと思い僕は一歩退く。
 
「いや、天音さんと仲良くしてくれってだけです」
「……」
 
 その言葉に、天音さんは黙り込んだ。いや、考え込んだとでも言うべきか。とにかく彼女は黙り込んだのだ。
 
「とにかく、今日は三人で昼食をとろう。キミと森上女史がいれば、さぞかし楽しいものになるだろう」
 
 そういうと、彼女はどこかへと去ってしまった。追いかけようかとも思ったが、何となくやめておいた。どうせ昼食になれば空き教室で会えるのだから無茶をする必要もない。それに、クラスメイトや知り合いに見られても厄介だ。
 今のところは、自分のクラスのテントまで戻ることにした。
 もう何度目だろうか、ピストルの合図と共に走者が一斉に走り出した。