05.それでも僕たちは逃げてない
2014年01月04日 23:44
先に結論だけ述べておこう。少し遅れて始まった綱引きは、白組は完敗だった。
それはもう、ピストルの開始の合図が鳴った瞬間に、雪崩れ込むように向こうに引きずり込まれていった。僕もなんとか力になろうと足を踏ん張ってはみるものの、全く意味もなさず、地面に靴底の軌跡を掘りながらずるずると引き摺られていた。
結果、タイムアップのピストルの音を聞く前に勝負ありのピストルが鳴る。初戦敗退、これで午後の部は完全な暇人と化した訳だ。
そして昼食である。僕は早めに教室に戻っては鞄から弁当を取り出し、いつもの空き教室へと向かった。
扉を開けると、そこには先に森上さんが来ていた。
「あ、やっほー、建長寺くん」
「延暦寺です」
「あれ、そうだっけ、お寺の名前って憶えてたんだけど、間違えてた?」
何でよりによってそんなあまり名前の知られていない寺の名前を出すのだろうか。困った人だ。これからも出会う度に間違えられるのだろうか。今度は金剛峰寺か。
今日の森上さんはやはりというべきか、体育祭らしい活発な印象を纏っていた。黄色のシュシュでウエーブのかかったブラウンの髪をポニーテールに纏め、腕にも予備なのかはたまたファッションなのか、同じ種類のシュシュが巻かれていた。森上さんはもしかしたら黄色のグループなのだろう。
「天音さんはまだですかね?」
「もう来ると思うよ」
森上さんがそう言った数秒後、教室の扉の窓に人影が写り、開いた扉の向こうには天音さんがいた。
「やっほー、姉御」
「やぁ、遥くん、何だか久しぶりのような気がするな」
「そりゃまぁクラスも違うからなかなか会えないよね」
同級生の女子同士、仲良く会話している。ああ、なんてことだろう。なんでこうなることを僕は考えられなかったのだろう。この中に僕がどう入っていけと言うのだろうか。
「まぁ、そこの天竜寺くんが理由の一つかもしれないけれどね」
わざとだろうか。僕は延暦寺である。この人、ネタがなくなればその内神社に走るだろう、多分。
「彼は面白いよ。一緒にいて楽しい。キミとはまた違う魅力を持っている」
異性に、しかもかなりの美人にそんなことを言われると、照れる。とにかく照れる。隠すことなど無理なのだから、当然森上さんには気付かれ、からかわれる。
「ところで、天音さんと森上さんはどういう出会いだったんですか?」
天真爛漫にして元気溌剌な森上さん。そして、才色兼備にして完全無欠の天音さん。二人がどのようにして出会ったのか疑問に感じるのは、それ程難しいことではなかった。実際に興味もあったところだ。
「なるほど、そうだな……どこから話したものか」
「私ってね、今みたいに超元気っ子って訳でもなくて、本当に地味で大人しい人だったんだ」
天音さんが考え込み、それを無視して森上さんが口を開く。紡がれた言葉は、今の彼女とは正反対で全くと言っていい程その言葉からそんな彼女を想像することは出来なかった。
「勉強もダメ、運動もダメ。何を話しても面白くないし、可愛くもない。誰かを元気にしてあげることも出来なければ、誰かを幸せにしてあげることも、安心させてあげることも出来ない。私ってそんな奴だったんだ」
遠い過去を思い出すような、明後日の方向を向いて苦笑するような、いや、自身を嘲笑するような表情に、少しこの質問をしたことを後悔する。
「ずっと独りぼっちでさ、ずっと考えてたの。自分はいらない子だとか、役に立たない社会のゴミだとか、そんなネガティブなことをね」
本当に、想像出来ない。しかし、その表情から察するに、そのような過去があったのも事実だろう。
僕もまた、過去の森上さんみたいに、何か特別なことが出来る訳でもない、確かにそうだが、そこまで消極的思考になることもなかった。森上さんは一体、どんな過去を持っているのだろう。
「去年ね、高校生になってしばらくして、……三学期だったかな、姉御に初めて声を掛けられた」
◇ ◇ ◇
ずっと俯いていた。
前髪で目元を隠して、誰からとも視線を合わさないように。視線を合わせただけで、馬鹿にされる。蔑まれる。貶される。貶められる。
怖かった。認識されることが。自分がここにいるということを、周りの人間に認知されることが嫌だった。自分が嫌いで、恥ずかしくて、死にたいと思ったことさえ何度もあった。
直接的な暴力などはなかった。痛い思いはしなかった。でもそれは、直接的に言えば、私自身が周りの人間にとって手を上げる程の価値も持たない人間だということで、それだけで自分の存在価値というものを自身で思い知らされる。
もう、悲しみの涙さえ、この目頭から流れることを忘れていた。
とうの昔に、こんな環境に慣れてしまっていた。
同じ心境のまま、高校――羽ケ崎高等学校に入学した。同じく近所の高校だったため、知った顔もたくさんあった。もちろん、私を見限っていた人たちも。同じように、全く同じように、同じ人から見下される。それは、次々にクラスメイトに伝播していく。
――――暗い奴。
――――目立たない。
――――いるだけで邪魔。
そんな存在。誰からも必要とされず、教室の隅に溜まる埃よりも惨めで情けない、クズ。
必然にも、私は一学期を終える前に、登校拒否になった。それだけで気分が幾分も楽になった。誰とも顔を合わせなくていい。誰にも見下されることもない。社会から隔離され、誰とも接することもなく、ただ自分の世界だけで生きることが出来る。無論、両親は心配しただろうが。自分の娘が引きこもりになるなど、誰が想像するだろうか。いや、もしかしたら私の両親に限って、そんな想像を思考の片隅に置いていたのかもしれない。今となっては分からない。
中学校とは違い、高校はある程度勉強がしたいような連中が集まるようなところ、というのが本来の定義なのかもしれない。だから、私一人が登校拒否になったところで、その事実だけを確認して、何事もなかったように日々は過ぎていく。義務教育の枷が外れて、責任が各人に課されるのだ。私は、放棄した立場だった。
そんなある日、三学期になったある日、引きこもりだった私が、親と共に学校から呼び出された。私はどうしても行きたくなかったが、母親の説得により、仕方なく学校へと車で、親の運転で向かった。
呼び出した理由は事情聴取でもなく励ましの言葉を掛けるわけでもない、ただ、学校側としての進路の調査をするために、その意思表示を確認するために呼んだのだとか。親を呼んだのは、娘を連れ出す強制力を持たせるため。そして、娘に対して、選択が迫っていることを示し、急かすため。
文系に行くか、理系に行くか。そんなもの、二度と学校に行くつもりもなかった私には、興味の欠片もなかった。適当に、調査書の理系の欄にチェックし、選択科目を適当に選んで先生に返す。とりあえず学校に来てみないか、という先生の無駄な言葉を無視して、私と母親は職員室を去った。
そして、帰る前にトイレに寄ろうと、母を待たせてトイレに向かった。
用を済ませ、トイレを出たところに、彼女はいた。
「久しぶりだな、確か、森上遥くん、だったか」
長いストレートの黒髪、堂々とした佇まい、誰がどう見ても立派な人だと、第一印象で分かるような女性が、同学年の女子生徒がそこにはいた。
私は彼女の名を知っていた。天音桜火。どんな人だったかまでは、あまり覚えていない。そもそも、彼女とはこれっぽっちも接したことがなかった。
ただ――――そう、ただ、彼女は、私を見下すような視線は、していなかった。その視線で、その瞳で、彼女は何を見ているのだろう。私はそう思った。
「何故キミは、学校に来ない?」
ストレートに、それでも嫌味なところなどなく、彼女は私に訊いてくる。
しかし、それが何故か、嫌だった。やめてほしかった。関わらないでほしかった。彼女が私を、他の人間と平等に見る、それは、ネガティブだった私にとっては、彼女自身があまりにも高い場所にいたから、普通の生徒も、そして底辺にも満たない私自身も、全てが等しく平等に見えていたのだと、そう感じたのだから。
だからなのか私は、無意識にも彼女に、こう返してしまっていた。
「あなたみたいな人が、嫌いだからです」
彼女の脇を走り抜ける。彼女は驚くことすらしなかった。逃げる私を見て、嫌な表情一つしていなかったみたいだった。何を思ったのだろうか、私はその頃から、天音桜火という女子生徒の在り方に、興味を抱いていたのだろう。
翌日、授業を受ける気もなかったが、何となく登校時間を過ぎた後に学校を訪れ、その裏庭でのんびりしていた。特に理由もなく、本当に何となくだった。誰とも会う気もなければ、何か特別なようがあった訳でもない。
それでももしかしたら、昨日の彼女に会えるかもしれない、そんなことを考えていた。しかしすぐにその思考を振り払う。
彼女はきっと、授業をサボってこんなところに来るような、落ちこぼれではない。学校に行かずにこんなところで理由もなくのんびりしているようなクズと、同じ行動理由でこんなところに来るはずがない、と。
学校の裏庭、誰かが見回りに来ても気付かれにくいような場所のテーブルに座り、背もたれにずっしりと腰掛ける。何も考えずに、何も感じず。
「今日は、学校に来ていたのか」
見つかってしまった。
それが誰なのかを確認する前に、今ここにいるという行為を視られたことに対する、不安、恐怖。振り返ることも出来ず、ただその人物が後ろから接近してくるのを待つだけだった。
最初に目に入ったのは、同じ学校の制服。そして、プロポーションからして、それが女子であることが分かる。見上げれば、どこかで見た美しい黒髪のストレート。そして、堂々とした佇まい。昨日も出会った、天音桜火。
「何で、こんなところに来たんですか?」
「それは強いて言えばこちらの科白ではあるのだが――まぁいい、授業に出る意味がないと判断したからだ」
「……へ?」
目の前の完璧超人(かもしれない人)、誰よりも優秀で、カリスマのある人間が、その実こんなところで授業をサボるような、不真面目な人間だったのだ。
想像も出来ない。普通の生活をしていれば、きっと誰からも信頼され、誰からも好かれ、栄誉ある生活を送れているだろうに。こんなことをしていると、彼女の信用問題に大きくかかわるのではないだろうか。
「必要のないことはしない、必要のあることだけをする。無意味な時間を、出来るだけ過ごしたくないのだ」
彼女の生き方がよく分からない。きっと色々な才能があって、何でも出来るような人間が出来るような、余裕のある者の発言ではなかった。それが何を意味しているのか、その当時私自身、分かろうともしていなかった。
「それなら、私なんかと話していることは、必要な事なんですか……?」
俯きながら、顔を、表情を隠しながら、そう訊ねた。彼女は何と答えるだろうか。自分みたいな無能と話していることに、意味を見出すのか。
「もちろんだ。キミは見ていて――――面白い」
自分を見て、面白いと彼女は言った。馬鹿にしているのだろうか指を指して笑いたいのだろうか。しかし、彼女の表情は、そうではないと語っていた。彼女は本当の意味で、自分に興味を持っている、そんなことをふと考えてしまう。
「私を見ていて面白いって、どういう意味ですか……?」
「それは訊く方が無粋というものだよ。ただ、とりあえずは肯定的なものだと捉えておいてくれればいい」
その言葉が本当か嘘か、などと考える余裕はなかった。ただ、彼女が私に言った、肯定的な眼を自分に向けていてくれることに驚いたからだった。
いつまでも、自分に注がれる視線は否定的なものばかりだと思い込んで、なおかつ実際にその視線に晒されて生きてきた。
なぜ彼女が肯定的な視線を向けてくれるのか、それを問おうとしたのだが訊こうとしたのだが、怖くなってやめた。
ただ彼女が、何でも出来て美人な彼女が、自分のことを認めてくれている、自分のことを守ってくれていると、そう思っているだけで、何だか救われたような気がした。
私は弱い人間だったが、こうして彼女と出会った運命の強さくらいは、あったのかもしれない。
その後交流もしばらく続いた。
学校にも顔を出すようになり、周囲のみんなからも不審な目で見られながらも、それでもやっぱり近づこうとはしなかったようだ。そう、天音桜火――――彼女だけは私と一緒に話したり勉強を教えてもらったりした。私にとって、楽しくて穏やかな時間だった。誰かと遺書に学校生活を送れるなどと、夢にも思ってもいなかったのに。
成績も彼女の教え方が上手で少しずつ回復し、休んでいた期間に進んでいた授業内容も簡単に取り戻すことが出来た。三学期末に行われた学年末テストでは、何も出来なかった一学期の頃とは大違いで、上位に食い込むまではいかなくても、最下位レースから離脱し、真ん中の平均辺りの集団に紛れ込むことが出来た。
そんな感じで私は誰からも気にされることはなくなっていった。侮蔑の目で私を見る者は、きっといなくなった。
それから時間も過ぎて、何故か私は進級することが出来ていた。本来なら出席日数が足りないという理由でもう一度一年をやり直す――――所謂留年を体験するはずの人間だったのだが。何でも出来る天音さんがまた私のために動いてくれたのかもしれないと考えつつ、そんなことはないだろうと首を横に振った。
新学年が始まって、私は天音桜火とは離ればなれのクラスになってしまった。彼女と隔離されてしまうことは、学園生活に対して些か不安を感じるところもあったけれども、成績もよくなり、誰にも見下しの視線を受けることがなくなっていたこの頃、彼女と会えるのであれば問題ないだろうと楽観視していたところもある。これもまた運命なのだろうかと冗談めいたことを考えていたある日、事件は起こった。
それは彼女にとっては些細な一言で、私にとっては重大で、これっぽっちも些細ではない戦慄すべき一言だった。
「キミは、前髪を切った方ではいいのではないか?」
新たにクラスメイトができ、適当に初対面の人間とも数人友達を作っていた。複雑な心境ながら、日陰者としてでも真っ当な学校生活を送れていると自負していたものだが、ある日放課後に裏庭のテーブルで彼女と雑談を交わしていたところ、新学期早々そんなことを彼女に言われてしまったのだ。
確かに私は義務教育の先で自ら選んだ責任を放棄したところで再びそのどん底から復活し、まともな生活を送れてはいるが、それはこの現状があってのことであると思っていた。
それが前髪を切ってしまうとなるとどうなる。また以前の時と同じように『調子に乗ってる』だの『キモイ』だの言われるに違いない。そんなことを私に強要している彼女の心境がまた、理解出来なかった。
「その前髪は確かにこれまでキミと他人の視線を合わせないために役に立ってきた。しかし、今のキミにはもう必要ないのではないか?」
彼女は私の現状を知っている。あの出会いの後から、私と天音さんはなんだかんだでそこそこ親しくなっていた。おこがましい話だろうが、私は彼女のことを親しい友達だと認識していた。もうその時点で彼女や友達とは視線を合わせる必要があるのだろうし、それにはこの前髪は邪魔なものでしかない。
しかし、だ。やはりそこまで至るには、私の覚悟は足りなさ過ぎた。
「それに――――」
天音さんは言葉を続ける。
「キミは自分から、出来ることを見つけられないようにしているのではないか?」
「え……?」
天音さんの言葉は、その問いは容赦なく私の胸に突き刺さって、離れなかった。私が何も出来なかったのは、この前髪のせいだったとでも言うのか。
「その前髪は周りを視界から排除している。自分で自分の視野を狭くしているのだよ。それでは、出来ることも、やりたいことも、キミ自身の夢も、決して見つけられない」
そう言うと彼女は、何かしらの挙動を起こした。
何かしら、と言うのも、本当に私には彼女のその行動の一部始終が全く見えなかった。気が付いたら動いていた、その程度の認識しか私には許されなかったということである。
次に私に訪れた感覚は、私の後ろに誰かがいる、というものであった。それは勿論――――天音桜火。
私が動こうとする前に、彼女は私の額から前髪を掬い上げ、何か光沢のある金属――鋭利なものを私の額に翳した。
次の瞬間だった。
――――はらりと。
私の額から、髪が飛んだ。
彼女の右手に持つ鋏が私の額から、前髪を刈り取ったのだ。
視界を覆っていた黒い垂れ幕が取り払われ、そこから光が差し込んでくる。
明るい。眩しい。今まで見てこなかった物が視界に入ってくるような、そんな錯覚。
一瞬の出来事で、私は何も言うことが出来ず、ただ茫然と自分の前髪が風に流されていくのを見ていることしか出来なかった。
ふと、天音さんの顔が視界に入る。その表情は何とも楽しげで、それでいて嬉しそうであった。何をそんなに面白がっているのか訊こうとしても、その原因は私の顔にあるのだから訊く必要もないと早々に判断した。
「うん、やはりキミは、隠さなくても十分に綺麗な顔を持っているではないか」
腕を組んで満足そうに彼女は頷いている。
すると彼女は、今度は私の鞄を漁り出しては、そこから鏡を取り出した。恥ずかしくはあったが、そんな身なりでも私は女なのである。鏡を持っているからと言って図に乗っているとは思わないでほしい。
天音さんはその鏡を開いて私に見せてきた。必然的に私は自分の顔を、自分で見るという辱めを受けることになる――――と思ったのだが。
それは思わぬ感想を抱くこととなった。
――――私は、こんな顔をしていたのか。
前髪で顔を、目を隠し続けて、他人との接触を拒み続けてきた私に、自分の顔を見ることなど不可能な事であった。しかし、鏡に映る、そこそこ整った形の女の顔は、紛れもなく私の顔だったのだ。――――信じられないことに。
「これでキミは、自分を知ることが出来た。キミの人生は、本当の意味でここからなのだよ。自分に出来ることを精一杯探したまえ」
その日から、世界が変わった。
男子生徒の自分を見る目が明らかに変わった。何かしらの噂話――――友達から垂れ込んでくる情報だったのだが、どうやら自分が雰囲気が変わったと、あんなに可愛いとは思わなかったなどと、そんなことを言っているらしい。実際のところ、その友達にも似たようなことで驚かれたのだが。
たまに話しかけてくる男子、少し怯える私、そんな感じの毎日が続いて、少しずつ学校生活が楽しくなってくる。自分に青春が戻ってきているなどと乙女チックなことを考えるようになる。そうなれば、自然と気持ちは前向きになってくるというものだった。
そんなこんなで、今の、そう、今キミ――――厳島神社くんの目の前にいる私がここにいるのである。
◇ ◇ ◇
「神社と寺には明確な違いがあります。寺は仏で神社は神です。それと僕は延暦寺です」
こんなところで間違えてくるとは思わなかった。もはやわざとだろう。とにかく、天音さんと森上さんにはそんな運命的な出会いがあったらしい。
僕にはよく分からないが、森上さんは彼女なりに、天音さんのことを姉御呼ばわりする理由が根強く存在していたのだ。自分の人生を大きく変えてくれた存在、そしてありとあらゆる世界を拓いてくれた存在。姉のように頼りがいがあって、強く、心強い。
僕はどうだろう。天音さんと出会い、何かしらの世界観の変化があったろうか。それは、なかった気がする。森上さんのそれ程の変化は、感じられなかった気がする。
ただ僕に芽生えたのは、天音さんに対する、大切にしたいと感じるこの妙な感情のみ。
結局、その昼食の時間では森上さんの昔話に花を咲かせていたために、天音さんとのそう言った話は全くすることが出来なかった。
しかし最後に――
「天音さん」
森上さんは先にグラウンドに戻る準備をしに自分の教室へと戻っていた。
僕はタイミングを見計らったつもりではなかったが、天音さんに声をかける。
「もし時間があれば、放課後、いつもの裏庭に来てください」
その時僕はどう思っただろうか。正直緊張し過ぎてよく覚えていない。もしかしたら台詞を噛んだかもしれないとも思ったくらいに、その状況が記憶されてなかった。
◇ ◇ ◇
僕は自分のクラスのテントから、グラウンドを眺めていた。
日は既に傾き始め、残りプログラムもわずかとなっていた。そして、最後の種目、グループ別対抗リレーとなる。
入場門から、エントリーした生徒が駆け足で入場し、所定の位置で整列しなおす。指揮者のホイッスルで一旦その場に腰を下ろし、各ポジションの審判、そしてスタートのピストル係が準備を整える。
最初の一列目、リレーにおいてかなり重要な役割を担うスターターが横一列に並ぶ。観客席からはざわざわと騒がしい声が聞こえているが、きっとそこにいる彼らにはこれっぽっちも聞こえてこないのだろう。それほどまでに集中しているのかもしれない。そしてその時が来た。
――――位置について。
――――よーい。
ピストルの音と同時に、トップランナーたちが地を強く蹴る音が響く。一定のリズム、かなりテンポの速いリズムが入り混じり、まさしく戦場を思わせるようなザクザクとした音が会場を支配する。
選手が目の前を通り過ぎる時、その選手と同じチームの連中が、頑張れー、とか、もっと速くー、とか応援しているのだろうが、ここからでは上手く聞き取れないし、自分の席の周りにいる連中が何を言っているのかも分からなかった。僕が興味があるのは、天音さんの走る姿だけだ。
次々とバトンが手渡され、第二走者、第三走者と戦況は移り変わっていく。その度に抜いたり抜かれたり、まさしく拮抗した競走となっていた。そして、最終走者の一人前、僕のチームはトップへと躍り出た。このままいけば勝てる。天音さんにバトンが渡って、そのまま勝てる。
というかかなり今更だが、天音さんはアンカーだったのか。知らなかった。
僕たちのチームは、アンカーの一人前の時点でかなり有利だったのだが、二位の選手が思いのほか足が速いようで、ぐんぐんとその差を埋めてくる。十メートル、五メートル、三メートル、そして一メートル――――そしてその距離がゼロとなったその時だった。
「うわっと……!?」
僕たちのチームの選手が転倒した。派手に転んだらしく、痛みに悶絶しているようにも見える。近くにいたコーナーの審判が駆け寄ったがその生徒は大丈夫とばかりに立ち上がり、走り出す。相変わらず走る速度は速かったが、それはあくまで僕の尺度であり、本来のスピードと比べて桁違いに落ちていた。そして後ろから抜かれる。既に三チームで最下位だった。
その生徒は何とか走り切り、最後の白組のアンカー、天音桜火へと希望のバトンを託す。天音さんはよく頑張ったとか、多分そんなことを前の選手に呟いて走り出した。
――校庭に、一陣の風が吹き抜ける。
そう表現するのが適切だろうか。いつの間にかそこからいなくなっていた、とでも言わしめるような速さの走りに、チームの全員が唖然としていた。驚愕、そして突如現れた、絶望の中に垣間見た勝利の光。そして次の瞬間に、怒号のような声援が天音さんへと送られた。
彼女が僕の目の前を通り過ぎる際、僕の方をちらりと見たのは確かだった。ほんの少しだけ嬉しくて、その背中を見送る。その時の黒髪の美しさは、きっといつまでも忘れないだろう。
半周もしないうちに赤組アンカーを風の如く抜き去り、あとはもう少し前にいる黄組アンカーだけとなった。するとどうだろう。天音さんは更に、その速度を高めていった。これ以上に速くなるのかと、もはやそれは人間の域ではない加速能力だと僕は思った。
あっという間にその距離を詰め、ゴール直前で、一気に抜き去った。黄組アンカーの驚愕に染まる顔。この世の理不尽を体感したような顔は、悔しささえも消し飛ばしていた。とにかく、これで、体育祭は無事に終了した。
◇ ◇ ◇
総合優勝は、予想通り白組に終わった。グループ長が感無量の思いで優勝旗を取った時の拍手喝采は、彼自身が忘れることはないだろう。また、閉会式の後の各グループの集会で見せた副グループ長の女子生徒の涙も恐らくそこにいた多くの生徒の心に焼き付いただろう。しかし、僕はそれどころではなかった。
全てが終わり、帰る支度もみんなより先に終え、打ち上げの誘いも断って、僕は裏庭のテーブルのところへと来ていた。
一足早かったか、そこには彼女はまだいなかった。
テーブルに鞄を置いて椅子に座り、校舎が影となって光が届かず、少し薄暗い裏庭で、空を眺めながら彼女を待つ。
ああ、なんてことだろう。彼女のことが好きだと自分の中で断定できているわけでもないが、それなりに覚悟も決めて、勇気を出して一歩を踏み出したつもりだったのに、それでも怯えている自分がいる。ここを立ち去ってなかったことにしたい自分がいる。そんな自分を、心の中で黙っていろと殴り飛ばした。今はお前が出るところではない。臆病風は大人しくすっこんでいろと。
そして葛藤を繰り返し、何とか心を決めたところに、天音さんは姿を現した。
「済まない灯くん、待たせただろうか」
相変わらず、本当なら体育祭で疲労が溜まっているはずだろうに、そんなものをおくびにも出さず、いつも通りの笑みを浮かべてはこちらに歩いて寄ってくる。そうだ、僕はこんな堂々としている天音さんを欲しがっているのだ。この頼もしさと、強かさをいつまでも見ていたかったのだ。
「五分ほど待ちました。でも大したことじゃないです」
なんてことはない。その五分の間ずっと葛藤を繰り返していたおかげで、時間が過ぎるのが早かったくらいだ。むしろもう十分程遅れて来ても問題はなかったと僕の臆病な心は囁く。
「それで、こんなところに呼び出して、何か用でもあるのかい? キミから呼び出されるのは初めてだったか――――」
「そうですね。ちょっと話があって、呼び出しました」
ついに来た、この時が。僕は彼女に悟られない程度に深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。高ぶるな。慌てるな。怖気づくな震えるな逃げ出すな目を閉じるな下を見るな視線を逸らすな話を逸らすな――――
「その、単刀直入に言います」
躊躇う前に、緊張に呑み込まれる前に、決着をつける。
「僕は、天音さんのことが」
その言葉が真実とは限らなくても、その真実がどこにあるのか分からなくても。
「好きです」
その言葉を、いつか真実にしてみせる。真実を創り出す。
それだけあればいい。今僕の内にあるのが偽物で贋作で劣化物だったとしても、それが本物に負けると誰が決めたろうか。本物である必要などどこにもないのだ。僕は何もできないし彼女にはこんな言葉しか伝えることが出来ない。でも、それでいい。僕のゼロは、最大値はそこなのだから。全力を出したと胸を張れる。
「それは……」
彼女が口を開く。天音さんの顔は、どこか不安に満ちていた。何か後ろめたいことをした後のような、何か言い訳を探しているような――――
「――――出来ない」
天音さんは最後に、僕にとって予想通りの言葉を零して、僕に背中を向けたのだった。