03.蜜月の赤面看病
2013年11月25日 00:18
天音桜火――――彼女は、乱闘事件の翌日、学校側から謹慎処分が言い渡された。
情報の出どころは単純なもので、彼女が殴り飛ばした連中の中に、羽ケ崎の生徒がいたということである。その男が学校側に報告し、彼女が学校生活に支障をきたすようになったのだ。
しかし、あの場には僕もいた。なのに僕は処分を受けることはなかった。きっと彼女が、天音さんが上手く情報を操ったのだろう。僕はやはり、彼女に守られてばかりだった。
その次の日、当然と言えば当然なのだが、天音さんは姿を現さなかった。
いつもの通り授業をサボって僕の携帯に連絡を入れるでもなく、放課後に例の空き教室に姿を現すこともしなかった。彼女は、言われた通りに謹慎していたのだ。
一方で僕は、彼女が何の連絡を寄越さないことに違和感というか、日常とズレてしまっているような、何とも言えない差異を感じていた。
それは言われるまでもなく、僕にとっての彼女の存在が以前と比べて大きくなっていることを暗示しており、そのことを僕自身は自覚していたのだが、だからこそ、今までと違って彼女が傍にいないことに、一抹の不安を感じていたのだった。
授業中、英語の長文の解説をしている教師を無視して、僕は窓の外を見ていた。今月初めの席替えで、運よく教室後部、窓際の座席を獲得することが出来たのだ。
確かに、こんな時ばかりは、彼女が以前に行っていた通り、授業に何かしらの意味があるように感じられなかった。
何故僕はこんなところでのうのうと授業を受けていられることが出来るのだろうか。何故僕はそれを良しとして、彼女を放っておくことが出来るのだろうか。僕は、一体どうしたいのだろうか。
今からでも教室を飛び出して、例の裏庭でのんびりとコーヒーを味わっていれば、少しでも自分にとって意味のある時間の過ごし方ができたのかもしれない。
いや、彼女も言っていただろう、たとえ授業を放り出しても、意味などない、僕がいるからこそ初めて意味を成すのだ、と。それはきっと、僕の立場からしても同じだったのかもしれない。
掌で教師にばれないように携帯を弄びながら、何も反応のないそれに対し、小さく溜息を吐いた。
昼休みも、当然このことは話題になる。
彼女はそもそも美人である前に、学校でも知る人ぞ知る問題児でもあった。そう言った行動が目立てば、話題として槍玉に挙げられるのは何も不自然なことではない。
「確かにあの人綺麗だけどさ、それだけじゃん? あんな人のどこがいいわけ?」
「いやだからそもそも前提が間違っているわけで」
いつも同じことを言っているはずなのだが、なかなか理解していない、いや、忘れているのか、あるいは日本語が伝わっていないのか。僕が日本語を勉強しなおすべきか、彼らに日本語の再教育を施させるべきか。
「暴力沙汰だろ? 一緒にいて怖くないのかよ」
「……」
僕はその問いに対して、答えることが出来ない。
確かに、何も理解させてくれない彼女の行動は、恐ろしい。理解不能で不思議な彼女は、僕をどうしたいのか、何一つとして分からないのだから。
それでも彼女が僕を守ってくれていたのは確かなことだ。いつだって彼女は僕を守り、そんな状況に僕は安心し、信用し、満足している。馬鹿みたいな話ではあるのだが。
だから僕は、その問いに、口を開くことはなかった。
弁当を食しきって、適当に廊下をぶらぶらする。
例の空き教室に向かおうと思ったのだが、彼女がいないことを考えて、それだけで行く気が失せてしまった。
どうせ教室を出たのだからと思って図書室に向かおうと階段を上がったところで、名も知らぬ他人に呼び止められてしまった。
「キミが延暦寺くんだね?」
髪は染めているのだろう、綺麗なブラウンをしており、ウェーブがかかってふわふわしていた。
スカートは基準より短く、第一印象と開口一番の発言のテンションから、恐らく天真爛漫で自由奔放、そんな感じがする人だった。
「あ、あたしは二年の森上遥(もりがみはるか)って言います。よろしく」
「えと、よろしくお願いします」
天音さんと同じ学年で僕に声を掛ける理由、恐らく天音さんに関わることで、彼女は天音さんの友達か何かなのだろう。
「延暦寺くん、最近姉御と親しいよね?」
「あ、姉御?」
天音さんはそんな風に呼ばれていたのか。あるいは目の前の森上さんだけが呼んでいる特殊な渾名か。いずれにせよその呼び方には妙な迫力があった。
「ああ、姉御ってのは天音桜火ちゃんのことね」
「それで、天音さんが、どうしたんですか?」
「いやぁ~、かなりぶっちゃけた話なんだけどね、もしかしてもう付き合ってたりする?」
「付き合っ――!?」
突然の確認に動揺するも、とにかく変な誤解を与える前に正さなければならないのは確かだったので、全力で首を横に振った。
「そっか、別に縦に振っても問題ないんだけど、とにかくさ、キミは姉御に気に入られたわけ」
問題ないというのはどういう了見だろうか。どう見ても僕と彼女が釣り合うわけがない。森上さんの学年にももっと僕みたいなのではなく立派な男性がいるはずだ。
「姉御はあんまり人と関わるってことをしないんだよ。というより、周りが姉御を突き放してる感じ」
「はぁ……」
確かに彼女は多少威圧感のある人だ。それに加えて美人で成績優秀、運動神経抜群と究極の才色兼備なのだ。それこそ、天音さん本人曰く、“何でも出来る”。
そういう人というのは、ある程度のカリスマかコミュニケーション能力がない限り、妬まれ、嫌がられ、避けられる。
彼女はそれがないわけではない。むしろ、誰よりも持っているだろう。
しかし、彼女は、それら全てを、何か諦めているのだ。
どうとは言えない。ただ、何でも出来るはずの彼女が、他の人間との交流を避け、僕のところにのみ接近する。
逆に言えば、彼女は他人と関わらずに生きていくことさえ、出来てしまうのかもしれない。
きっと、人間関係を根本から信用し辛くなってしまうような過去があるのかもしれないと、そこまで勘ぐってしまうのだった。
「姉御は延暦寺くんのことを気に入ってるんだから、延暦寺くんも姉御のこと、大事にしてくれるとありがたいな」
彼女は真剣で、しかしどこか嬉しそうに微笑んでそう言った。
僕に何を期待しているんだろうかともいながらも、僕は、そんな彼女の素敵な笑顔に、もう少し彼女と真剣に向き合おうなどと、柄にもないことを考えてしまう。
「私も姉御の何でも出来ちゃうところに助けられたからさ、分かるよ、キミの気持ち」
じゃね、と早口に切り出して、彼女は去ってしまった。
結局、彼女は天音さんの何だったのだろう。聞きそびれてしまったが、それでも森上さんもまた、天音さんを尊敬し、慕っていることは理解出来た。
逆に、天音さんは森上さんをどう思っているのだろうか。
それにしても、彼女もまた、天音さんに助けられた存在らしい。彼女もまた、天音さんに対し、自身の無力さとか無能さとか、そんなことを嘆いたのだろうか。それとも、彼女の性格からして、そんなことですらポジティブに捉えられたのだろうか。僕にはやはり、よく分からない。分からないことだらけだ。天音さんのことも、森上さんのことも、そして何より、自分自身がどうしたいか、自分のことでさえも。
それから妙に、体がだるくて仕方がなかった。
厳密に言えば六時限目の途中くらいからか、じわじわ来ていたのが急に意識してしまったためか、突如として体に力が入らなくなり、重くなった。勿論そんな状況で授業など受けていられなかったが、保健室に向かおうという気も起きなかった。
とにかく全力を振り絞って放課後まで足掻き、チャイムと共に机に突っ伏す。
動かない。思った以上に体が動かない。どうやって家まで帰ろうか。
姉のために食材を買ってこなければならない。ポケットの中のメモ用紙をまさぐっては引っ張り出し、側頭部を机にくっ付けながらその中身を読む。
これからあのスーパーまで行くとなると、余計に憂鬱になって余計に体がだるく感じる。
とりあえず――――教室、校舎を出ないと始まらないと思い、テキストを鞄に放り込み、何とか廊下を抜けた。
昇降口で靴を履き替え、おぼつかない足取りでエントランスを出る、が、もう既に限界は近づいていた。
何と早いことだろうと目撃者やこの物語をご覧になっている諸君は思うかもしれないだろうが、僕には体力などないのだ。それも、天音さんには勿論、並の男子生徒、いや、女子と比べても勝るかどうかは分からない。マラソンなぞ大嫌いだ。消えてしまえ。
とにかく、少しだけ休みたかった。しかしここで休んでいては他の下校性に邪魔である上に、立ちっぱなしで休憩しなければならなくなる。
そこで僕は、一度例の裏庭のテーブルで休憩することにした。
幸い、今日はここには誰もおらず、利用者は僕ただ一人だった。
鞄をテーブルの中央に放り投げるようにして置き、身を投げるようにして椅子に座り込み背もたれに体重を預ける。
これは本格的に体調不良の始まりだ。風邪の一つでも引いたのかもしれない。最近は体調を崩したことはなかったのだが、環境の変化が起きて来ているためか、少しストレスを感じていたのだろう、体が弱っていたのかもしれない。
放り投げた鞄を枕代わりにしてテーブルに突っ伏し、ぼうっと遠くを眺める。
視界が悪い。何だか視界がぼやけて気分が悪い。本当に、世界から隔離され、孤独になってしまうかのような、悍ましい状態だ。誰かに、助けてもらいたくて、気が付けば腕が前に伸びていて――――
――――そこで僕の意識は、プツリと途切れた。
◇ ◇ ◇
何かに包まれていて、僕は仰向けになっている。それが最初の感覚。
意識が次第にはっきりしてきて、重かった瞼をゆっくりと開く。見慣れない部屋の中、見慣れない天井、そして、僕の知らない家具、そして僕自身の乗っかっているこのベッド。
部屋を軽く見回しても、ここがどこであるのか皆目見当もつかなかった。
白を基調としており、割と物も少ない。清潔で生活感のない部屋だと言える。
窓を見下ろすと、ある程度高い場所であることが分かった。恐らくここは建物の三、四階であるのだろう。
「おや、目が覚めたか」
奥から――――厳密には表から聞こえてきた声は、聞き慣れた声だった。今月に入ってからというもの、もう何度も耳にしている、凛々しくも強かな声。
「ここどこですか?」
分かり切ったような質問を、奥――――表から出てきた天音桜火にぶつけてみる。何となくそうでないように心のどこかで祈りながら。
「寮の私の部屋だよ」
唖然とすると同時に、体の奥底から何とも言えないような不快な感情が込み上げてくる。
そうなるとここは完全に彼女の――――天音さんの居住スペースで、恐らく今僕が座っているベッドも普段彼女が使っているものだろう。ただでさえ異性の家に行ったことなどなく、今回が初めてだというのに、いきなり不可抗力とは言えその部屋のベッドで寝てしまうなどという荒業が成立していたことに、僕の口は開いたまま塞がらなかった。
「とにかく、キミは高熱を出しているのだ。今は軽く解熱剤を投与しておいたから楽だろうが、安静にしておくといい」
そう言うと彼女は僕の座っているベッドの枕元まで寄り、そっと僕の肩を掴んで再びベッドへと横たえた。その時彼女の顔が近過ぎてドギマギしたのは恐らく彼女にばれていただろう。少し楽しそうに口元が歪んでいたのがその証拠だ。
「いやそもそも、何で僕が天音さんの部屋に運ばれてるんですか?」
初めからそれを聞きたかったのにも拘らず、先程からショッキングな状況に心が参ってしまっていたためにすっかりと聞きそびれてしまっていた。
もうこの際天音さんの使用しているであろうベッドに横たわっていることに関しては知らなかったことにしよう。意識してしまうと本当に落ち着かなくなってしまう。意識を他に逸らせ、それが今の僕の最善の悪手だ。
「いや、何となくだが、キミが呼んでいるような気がしてな、謹慎中であるが故に丁度暇だったから学校に寄ってみたのだ。それで更に何となく周囲を散歩していては弱っているキミを見つけ、とりあえず応急処置をと思いここに運んだまでだ」
なんという偶然だろうか――――
いや、もしかして計って来たのではなどと決して彼女を疑うわけでもないが、それでも彼女が僕をからかうには何と今のこのシチュエーションは最高なのだろうか。いくらでも僕をいたぶり辱めることが出来る。
「とりあえず薬を通す時に色々と面倒だったから、膝枕を敢行したのだ。そうすることで錠剤が簡単に喉を通ってくれた」
既に辱められていた。
ふと、彼女の足元、スカートからはみ出す白い素肌に目が行ってしまった。男の子なのだ。そこは責めないでほしい。
とにかくこの後頭部が、彼女のあの美しい御足に触れたというのか。僥倖とも言えるが、やはり恥ずかしくて意識してしまう。
「いや、もぞもぞとキミが動くものだからくすぐったかったぞ」
そんな追加情報はいらなかった。一体僕は彼女の膝上でどう動いたのだろうか。ちょっと聞いてみたかったりもしたが、聞いたら聞いたでこの部屋に穴を作って潜りたくなってしまう衝動に悶絶してしまいそうだったのでそこは敢えて我慢しておいた。
「えっと、姉の今日のお遣いに行きたいんですが」
「しかし今のキミでは到底無理な話であろう。キミのお姉さんに連絡をしてみてはどうだ?」
確かにそうに違いない。今の僕は、体にほとんど力が入らない。
だがしかし、家には帰らなければならないのだ。ここに泊まることなど、もってのほかだ。
「家に帰るもの酷だろう。今日は泊まっていくといい。いや違うか、泊まれ」
最初の勧誘の時点で首を横に振ろうとした矢先の圧力のある言葉に、その首はそのまま縦へと流れてしまった。最早どうしようもない。今すぐにでも他の、とってつけたような、後付設定のような理由でここを去りたかった。しかし体は動かないのは、何とも皮肉と言えよう。
姉はこの時間は既に講義を終えているため、とりあえず電話で連絡を入れておいた。友達の家に遊びに行って流れで止まることになった、夕食の買い出し及び準備は済まないが一人でしてほしい、埋め合わせはいずれする、と。
とにかく、その脅しのような強制的なそれは、彼女が僕の身を案じてのことであろう。そのことに関しては感謝すべきことでもあるし、やはり彼女には何でも出来てしまうのだと感じる。いつしか僕は、彼女に憧れのような想い、所謂憧憬の念を抱いていたのかもしれない。
枕元に椅子を出して腰掛け、僕の顔を眺めている彼女の何とも楽しそうな顔を、そっぽを向きつつちらちらと視線を送りながら、僕は何故か、この状況に安心しきってしまっていた。
少し寝ていなさいと言う彼女の勧めに、僕は頷いて瞼を再び閉じた。
少し、いい香りがしてきた。
どれくらい寝ていたのかは分からないが、その香りに意識を浮上させる。瞼を開け、再びその白い天井を視界に写す。
ほんの少し、気分がいい。彼女が服用させてくれた薬が効いているのだろう。放課後の気分の悪さは今となっては感じられなかった。
部屋の表にあるキッチンに天音さんは立っていた。
「何作ってるんですか?」
「起きたか。いや、簡単に粥を作ろうと思ってな。何も食べずに薬を服用するのは危険だからな」
天音さんは僕にそこまでしてくれる。献身的な優しさ。それはかつて、姉が僕にしてくれたことと同じだった。姉も僕が高熱を出した時、一番慌てていた。父も母も仕事で忙しかったため、姉が僕の面倒を見るしかなかった。その時姉はまだ高校生だったが、僕の看病のために学校を休んで一日中付き添ってくれた。姉は今でも、同じことをしてくれるのだろうか。
天音さんは粥を盆に乗せながらこちらへと運んでくる。そして枕元に座り込み、その片手にレンゲを持ち、粥を一口掬って、口元まで持ってきた。
「ほら、あーん」
「何やってんですか」
いたって冷静に突っ込みを入れたつもりだが、内心では物凄く焦っていた。慌てていた。これ以上に無いくらい動揺していた。
自分でも無理もないことだと思う。最近知り合った美少女の部屋で看病してもらい、少しばかり安心出来るようになったところでこの仕打ちだ。下手したらコロッと心が傾いていたかもしれない。一応、流されないだけの精神はあったみたいで安心したが。
「自分で食べられますよ」
「いや、キミが自分で食べられるかどうかはさほど問題ではないのだ。要は私の知的好奇心のようなもので、病気で弱っている異性に対してこのような行動に出るというのが、相手に対して、また自分に対してどのような影響を与えるのか試してみたいと思っていたのでな」
彼女が妙に長い説明をしていた時、その顔は喜びに満ち溢れ、レンゲを持っていたその右手は強く握られ、武者震いの如く震えていた。
「とにかく、今は私にキミ自身を預けてみてはもらえないだろうか。私を信用できない気持ちは理解出来るが、それでも私は、キミを構いたい」
また、不安そうな顔を、表情を表した。全く、そのような科白を吐きながらそのような真面目なことを言われると、こちらも無碍に駄目だと吐き捨てることすら敵わなくなる。
いつまで経とうと、僕は結局甘えん坊なのかもしれない。いつまでも守られて、いつまでも誰かの傘下にいて――――
「わ、分かりました。今回だけですから……」
おずおずと頷くと、彼女の顔に、再び元気が戻った。いつもの、楽しそうな笑みがそこにはある。やはりというか、何となく、この人は、こうやって意味もなく楽しそうに笑っている方が僕は好きだと、柄にもないことを考えてしまう。
湯気を立てる白い粥を掬ったレンゲが口元まで運ばれ、僕は若干躊躇いながら口を開ける。そこにそっと彼女の持つレンゲが入り込み、僕はその粥を口にした。味は、これはまた吃驚するくらいに塩加減も絶妙で、最高に美味しかった。というのも、病人である僕に対する配慮もあって、若干薄めの味付けであったのだが、十分に満足出来る代物だった。
ふと、天音さんを見てみると、先程にも増して、楽しそうな表情を浮かべていた。
「成程、これは、楽しいものだな」
天音さんも、何か満足しているようだ。結局僕は、天音さんにされるがままに粥を口に入れ、とりあえず腹に物を詰めて薬を服用したのだった。
少しだけ、この関係が温かかった。守ってもらえるのが、こうやって大切にしてくれるのが、温かくて、嬉しくて。
僕の心は、無意識の内に弾んでいたのだった。
さて、だ。
どうしてこうなってしまったのか、読者諸君に知恵でも貸してもらいたいところだ。
今僕は天音さんのベッドで寝ている。それは問題ないことではあるし、正直今に始まったことでもなく、長い間ここに横たわってしまっていたこともあり、慣れてしまったのも否めない。
だがどうだろう。そのベッドの、僕の隣に、彼女の身体が横たわっているというのは。
体が密着してはいないとはいえ、少し身動ぎをしただけで体同士が触れ合いそうな距離であるし、今の状態でも十分に彼女の体温を布団越しに感じてしまう。全力で天音さんから体を放そうと頑張ってはいるのだが、意識していると疲れる上に、このままでは到底眠れそうもない。
しかも彼女は、あろうことかこちらに背を向けようとしないのだ。僕が向けている背中に、ずっと視線を感じてしまっている。正直居心地は最悪である。
間違いが起こる可能性など皆無だが、それでも僕が青春真っ盛りの年頃の男子であることを理解してほしい。いや、理解はしているのだろうが、それを踏まえた上で正しい行動をとってほしい、というのが正しい表現だろうか。
ほんの少し前、天音さんは一度自身の身を清めるために風呂へと向かった。それだけでも色々と意識してしまうことはあったのだが、それは置いておくとしよう。とにかく、彼女は風呂に入ったのだ。
その後も全裸でこちらに現れるということもなく、かといってギリギリの際どい服装をしていたというわけでもなく、至って普通のパジャマを着ていた。何も問題ない――――はずだった。
天音さんは突然僕の横たわっている布団の中に侵入してきたのだ。
「誰かの隣で眠るというのは小さい頃以来だ。懐かしい気分だな」
などと悠長なことを言っていたが、そんなことは知ったことではない。それだけは勘弁するように何度か説得を試みたのだが、本当に、いや本当に、彼女の不安げな表情は反則だとしか言いようがない。彼女は、常に堂々としていなければならないのだ。弱々しい彼女を、見ていたくなかった。それだけで胸が締め付けられているような気がした。僕は、いつでも前向きで強かで華麗な天音さんが好きなのだ。
今思い切りとんでもないことを口走ったような気がするが、閑話休題、とにかく僕が断り切れなかったせいで彼女が隣にいる。彼女のシャンプーの香りが、その甘い香りが僕の鼻孔を突いて大変精神上不衛生なのだ。
「何をそんなに緊張している。楽にしていないと眠れないだろう」
原因はあなたにあります、と突っ込みたいところだが、それすらも言えなかった。何か恥ずかしかった。それを言うと、色々なものを認めてしまうような気がしてならなかったからだ。断じてそのような事実はないが――――ないが――――
「……」
ふと、気が付くと背後からの声が、途絶えていた。安らかな寝息だけが聞こえてくる。
恐る恐る後ろを振り返ってみると、天音さんは可愛らしい寝顔で眠っていた。――――僕は何を言っているのだろうか。
彼女も、人間なのだ――――ふと、そんな文が頭に過ぎった。
当たり前かもしれないが、僕にとって彼女は、僕を守ってくれる守護霊のような何か、みたいに捉えていた節があったのかもしれない。しかし彼女も自身の感情を持ち、他人と関わって初めてその存在を確立出来る一人の人間で、今は僕と共にいることで、楽しいと感じてくれている。彼女の安らかな顔を見ていてそんなことを想ってしまう程には、僕は天音さんに心を許してしまっている。そのことに関しては自身でも何となく認める気にはなれたし、彼女に対してつっけんどんに接する意味もない。彼女を受け入れられるのなら、その分だけ受け入れようとは思う。実際問題、僕が彼女をどこまで許容出来るかは分からないし、彼女がどういう人で、僕をどうしたいのか未だに理解出来ていないが、それでも、天音さんが僕にとって大切な人であるというのは、確かだ。
――――今感じる、この温かく激しい動悸は何だろう。
もう一度天音さんに背を向け、その寝息を背中で聞き流しながら、僕の意識は微睡みの世界へと堕ちていった。