48.思い出の先に

2013年11月07日 00:15
 
しんしんと、桜が舞っている。
徐々に昇りはじめる朝日を受けて、桜の花びらの1枚1枚はほんのりと優しく照り輝いていた。
少女は大きな木の幹に体を預け、左腕をそっと宙に差し伸べていた。
開いた掌に積もる薄紅色の花弁。
家を出る前に義弟の様子を確認したところ、彼は彼の妻と、幸せそうな寝顔をしていたことを思い出す。
連れて行こうかとも思ったが、2人の時間は大切にすべきだと思い直した。
約束の時間はまだまだ先、昼の話になるが、早朝からここにいたのは、なんとなく、としか言いようがなかった。
何十年も共にしてきた、桜。
自分の名前もまた、自然とそれを連想させるもので、その存在が、懐かしくて感慨深いものであった。
祖母はこれをどんな想いで植えたのだろうか。
祖母は自分に、何故この木を託したのだろうか。
大好きだったあの人は、既に天高く昇っていった。
かつては兄のように慕い、恋情までも抱いていた彼。
彼は笑って、この世を去った。温かな家族に見守られながら。
彼から貰った最後の饅頭は、親友と半分にして食べた。本当は甘かったであろうその味は、何故か少し、しょっぱかった。
思い出はたくさんある。
幼少の頃、この木の下で彼と交わした約束から、今までのことを、ゆっくりと振り返ろうと、そっと瞳を閉じた。
 
「おにいちゃん……」
 
金糸のような髪をなびかせた少女は、ひっそりと呟く。
その夢のような、幻想的な光景の中で、桜はただ、しんしんと舞っていた。
 
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森園立夏は思案していた。
今日の花見で着ていく洋服をどう着こなすか、姿見の前で迷っていたのだ。
想い人に見せる私服はこれで2度目である、が、その1度目は例の噂、『幸せを呼ぶ夫婦』の調査のために島中を歩き回っても支障がないよう、なるべく運動しやすい恰好だったのだからお洒落をしたとは到底言えないと、立夏自身のプライドが言っていた。
だからこそ、今日という大切な日、禁呪の世界から脱出した、その記念日ともいえるこの日に着ていく服は、どうしても選ぶのにかなり慎重になるのだった。
全く、面倒臭がり屋な性格も持ち合わせている彼女の行動とは到底思えない。
そうこうしている内に、既に2時間が経過しようとしていた。
彼女の不安そうな表情は、もうしばらく消えることはないだろう。
 
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龍雅は、既に清隆たちと合流していた。
バス停に集合ということになっていたのだが、少し手前でさらと鉢合わせ、一緒に歩いていたら葵とも合流、その足でバス停まで来たのだ。
それから数分して清隆と姫乃、それからシャルルが私服姿でバス停に現れた。
このタイミングで気が付いたのだが、女性陣は全員何かしら花見を盛り上げるための何かを持参してきているようだった。
そして清隆はその荷物持ちもしているため、実質手ぶらで何も持ってきていないのは龍雅だけだった。
 
「俺だけ手ぶらか……。申し訳ない」
 
「えーっと、仕方ないよ。元々好きで何か持ってきてるだけだし、それにそういう話はなかったから、ね?」
 
シャルルが慌てながら慰めるが、それでも龍雅は少しばかり罪悪感のようなものを抱いたようだ。
 
「それでもやっぱりこれって空気が読めてないってことになるんだろうか」
 
「龍雅先輩はまだこの島に慣れてないようですし、今度森園先輩と一緒に商店街とかでお買い物でもしに行くのはどうでしょうか?」
 
さらのフォローも入った。
実際にそうだと思ったのだが、正直に言うと龍雅は既にこの島の地理は大体頭に入っていた。
ただ全ての店などに入って確認したわけでもないので、それもありかと考えたのも本当の話である。
とにかく、立夏を除いたメンバー全員がここに揃い、立夏との待ち合わせ場所である風見学園の校門前へとバスで向かった。
 
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「立夏さん、遅いですね~」
 
警察の敬礼のポーズみたいに右手を額に当て、きょろきょろしながら立夏を探す葵の姿は、もはや陳腐で滑稽に映った。
だがしかし、全員にとって、今回の立夏の遅刻は、葵がそのような行動を取るのも無理もないことが頷けた。
立夏は面倒臭がりな割に行動家で、何をするにも先陣を切ってみんなを導き、常に何かしらの結果を実らせてきた。
そんな彼女がこんな大事な時に遅刻するなど言うことは、夏に雪が降るくらいありえないことだと新聞部のメンバーは思っていた。
 
「立夏さん、体調でも崩したのかな……」
 
清隆の他人を気遣う性格はこんなところでも現れる。
 
「いや、病気なら連絡が入るでしょ、普通は」
 
「それもそうだよね」
 
姫乃が突っ込み、シャルルが苦笑する。
龍雅はただ、桜並木の奥深くを見つめて、身じろぎひとつしないでいた。
“あの場所”に着く、約束の時間まであと30分。少し早目に時間設定をしておいてよかったと、シャルルは心底思った。
 
「みんなー!遅れてごめーん!」
 
遠くから、全くと言っていいほど悪気を感じない、弾んだような声。
声の下方向に視線を移すと、そこにはなかなか素敵なコーディネートをした美少女が走ってきていた。体が弾むたびに金の髪がなびくのは、本当に美しい。
少し大きめのバッグを抱えて、立夏は息を切らして到着した。
 
「立夏さん、こんにちは」
 
「立夏ー、遅かったじゃない、何してたの?」
 
「いや、ちょっとね。そんなことより、私のせいで時間が危ないんじゃない?みんな揃ってるわね?」
 
まるっきり反省の色もないようだが、状況は理解しているようだった。ある意味彼女らしいとでもいうべきか。
部のメンバーもそんな彼女を正しく理解しているようで、彼女同様に、気持ちを切り替えて返事をした。
龍雅は、一番後ろから、こちらを向かない立夏を見て、何気なく微笑んでいた。
 
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桜並木を抜け、その先にある桜公園を通った先、少しばかり道なき道を進めば、そこに“あの場所”はある。
桜が三度咲いた時、公式新聞部に届いた、文字化けしたメールに書かれた文章。
 
――桜が咲いたら、約束のあの場所で。
 
龍雅はその物語の結末は知らないが、それでも、見届けたい何かがあった。
木々に遮られていた視界が、少し広い場所に出てきて、少しづつ開かれていく。
中央にそびえ立つ大きな桜の木、通称枯れない桜は、100年前からこの初音島を見守ってきた。
龍雅は思い出す。かつて、自分はこの場で、憧れていた弟と命がけの兄弟喧嘩をしたことを。
そしてまた、この場所に帰ってきた。
過去をを振り返ってみれば、そこにまだ彼がいるように、風景が重なった。
 
「やぁ、みんな。よく来たね」
 
桜の木の陰から姿を現した、もう1人の金髪の女性。
温かな笑顔を携えて、みんなを迎えるその人物を、龍雅はよく知っていた。
この女は――この女は――
 
「それに、久しぶり――」
 
――弓月、龍雅くん。
 
風が吹き抜ける。
その呼びかけに、龍雅の体に悪寒が走った。
後ろめたい感情が、彼を苛ませる。
この人の前に姿を現すべきではなかったと、後悔と自己嫌悪が彼を襲った。
思い出がよみがえる。
自分が上代龍輝だった頃、何度も挑戦しに来る彼女をチェスで圧倒してみせた。
記憶を失った少女は、それでも強く生きた。明るい笑顔を振りまいて、いつでも元気に駆け回っていた。
そして、弟と対峙した時、その少女は、自分の敵として龍雅の前に立ち塞がった。
弱々しくて、常に自責の念に駆られていた彼女は、弟と一緒に過ごすことで、確実に強くなっていた。
誰にも覆すことのできない、不屈の意志が、その眼に宿っていた。
そんな少女だった彼女が今、自分の目の前で、温かな表情をしていることに、耐えられなかった。
大切な人を失って苦しんだ自分が、その恐怖を、悲しみを、怒りを知っていたからこそ、彼女の立ち振る舞いが、眩し過ぎた。
自分は彼女にとって大切な人を、世界を消そうとしたのに、何故その存在を、迎えることができるのか。
 
「龍雅……?」
 
「俺は……」
 
龍雅の動揺に立夏は気が付いたが、龍雅には体裁を改める余裕さえなかった。
怯え、苦しみ、無意識にその足は、1歩後ずさっていた。
 
「俺は……」
 
錯乱したように、何度も呟く。
しかし金髪の女性は、表情一つ変えることはない。
 
「大丈夫、大丈夫だから」
 
女性は龍雅との距離を詰め、そして、彼の頭を、そっと肩口で抱きしめた。
子供をあやすように。そして、慰めるように。
龍雅はそれを受け入れた。彼女の身長に合うように、少し屈んで。その行動は、無意識から来るものだった。
 
「俺は……」
 
最後の呟きに、焦燥の色は感じられなかった。
女性はクスリと微笑み、龍雅の髪を撫でる。
 
「ボクは知らない。キミがどんな人生を歩んできたのか。それでも、ボクは分かることができる。キミがどれだけ傷つき、苦しんできたか」
 
立夏たちにとって、何が起きているのか皆目見当もつかなかったが、邪魔してはいけないということだけは、何となく理解できた。
少し離れたところで、その様子を傍観していた。
 
「下を向いちゃいけないって、自分を否定しちゃいけないって、あの子はいつも教えてくれた。ボクもそうだったし、キミにも同じことが言える。キミがしてきたことは、咎められるべき罪なんかじゃない。ボクたちはキミを責めることはできない。キミは、光雅くんのお兄さんで、ボクたちにとって、家族のような人なんだから」
 
声が、自分の弟の――弓月光雅の声が、聞こえたような気がした。
彼なら今の自分を見て、何というだろうか。
責めるだろうか。罵るだろうか。あるいは――
 
――お帰り。兄さん。
 
間違いないと、自分が彼の兄でよかったと思えば、涙は自然と溢れ出してきた。
止まらない。迸る感情を止めることは、もはや不可能だった。
嗚咽を漏らしながら、龍雅は“こちら”に来て、初めて泣いた。
それは、決して後悔の涙ではなく、もしかしたら、喜びの涙だったのかもしれない。
 
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枯れない桜の木の下で大きなマットを広げて、花見は始まった。
 
各々持ってきた料理や菓子を中央に並べて、茶を飲みながら、桜が咲いた時のことを清隆たちは思い出していた。
 
「ねぇねぇ、龍雅くん、もしよかったら、これ、勝負してくれないかな?」
 
そういってさくらがカバンから取り出したのは、白と黒の碁盤のマスをもつフィールド――チェスだった。
慣れた手つきで、ポーンからキングまで、綺麗に並べていく。
龍雅は少し考え、了承した。
 
「いいだろう。受けて立つよ。以前のようにボコボコに返り討ちにしてやろう」
 
「ノンノン、このボクが以前から全く成長してないと思ったら大間違いだよ」
 
さくらと龍雅が碁盤を挟んで対峙し、それを見守るように他の面子もシートに座る。
早速2人の勝負が始まると思ったが、それを制した。
 
「ちょっと待ちなさい、開会の口上くらいさせて頂戴」
 
コホンと1つ咳払いをして、そして全員に向き直る。
 
「それでは、みんなとの100年越しの、本当の意味での再会を祝して――かんぱいっ!」
 
「「「「「「かんぱーい!」」」」」」
 
立夏の掛け声を合図として、ジュースの缶が重ねられ、パーティの開催が告げられる。
桜の木の枝の隙間から差し込む木漏れ日は明るく、最高の花見日和であった。
それにもかかわらず、さくらたちは早速チェスに打ち込んでいた。
素早い計算と先読み、そして巧みな心理戦を駆使してお互いに駒を進めていく。
一方で清隆は、何か考え込んでいるのか、1人でぼうっとしていた。
 
「こら清隆、何1人でちびちびやってんのよ。折角のお花見なんだから、ガンガン行きなさい、ガンガン!」
 
そんな彼を立夏が放っておくはずもなく、ビシリと指摘されてしまった。
流石の清隆も、我に返って苦笑する。
 
「そうですよ清隆さん、一緒に盛り上がりましょう!」
 
葵も便乗して、清隆を催促する。
確かに物語の中心となった人が1人だけ話の外で呆けていては何も始まらない。
 
「タカくん、今日はタカくんのためにいっぱいおつまみ作ってきたんだよ。食べて食べて!」
 
「私もお惣菜とかいろいろ作ってきましたので、そうぞ」
 
「わ、私もクッキーとか焼いてみたので、よ、よかったらどうぞです」
 
3人はそれぞれ自分のカバンから取り出して広げたものを、少し清隆の方に寄せてはつまむように勧める。
ここまで想われるとは、流石清隆である。
但し、シャルルの勧めに全員が一瞬引き攣った笑みを浮かべたのは、シャルル自身気が付いていない。
誰もがとびっきりの笑顔を浮かべて、この時間を楽しんでいる。
そして清隆はこう呟いた。
 
「それにしても、奇跡って本当にあるんですね」
 
時代を超えて再び巡り合い、こうして同じ時間を共有していることに清隆は感動していた。
自分が幸せであることを、理解していた。
 
「もう、奇跡じゃないわよ。これは運命なの。運命!」
 
立夏が訂正を要求する。
奇跡ではなく、運命でることを強調する程、立夏は誰よりも超自然的なものを心から信じていた。
それは、彼女が彼女自身を信じ、そして夢を追いかけ続けた結果である。
 
「地下学園都市に魔法学校、そしてカテゴリー5の魔法使い、孤高のカトレア――」
 
「貝殻のような通信機、三種の神器……。どれも本当のことでしたからね~」
 
立夏が龍雅と出会う前、どんな話を他の部員にしていたのかは分からないが、立夏がかなり問題児扱いされていたのを、シャルルと葵の発言から窺えるだろう。
清隆もその時のことを思い出していたのか、少し笑みが零れていた。
 
「私、忘れてないからね。あんたらが散々、私の記憶を設定設定言ってたのを」
 
立夏が睨むように部員を見まわしては、その視線に刺されたみんなは何とも言えない表情をしていた。
仕方ないと言えば仕方ないことである。
 
「でも、なんていうか、あの後俺たちがどんな過去を送ったのか気になるな」
 
その言葉を皮切りに、何故か清隆が女性陣に追い込まれていく。
その理由はすぐに分かった。
ループ世界の中で、清隆はここのメンバーに思われ過ぎたのだ。
立夏はこのことを五股だと糾弾したのだが、言い得て妙である。
そしてそれぞれが、清隆が一番幸せにしてくれるのが自分だと言い張りはじめる。何とも不毛なことか。
清隆が段々居心地悪そうな、微妙な表情をし始めた。
龍雅は少し振り向いて、彼の耳元で囁いた。
 
「頑張れ」
 
これが引き金になったのか、どうしようもない状況に、清隆の体はへなへなと崩れ去ってしまった。
さくらが体を動かして駒を動かす。この一手が、さくらにとって逆転の足掛けとなるものとなった。
 
「まぁまぁ、みんな。そんなに焦らなくても過去はあくまで過去なんだし、大切なことはこれからのことで、未来はたくさんある。だから、これからじっくりと、みんなで未来を選んでいけばいいんじゃないかな?」
 
さくらが空を見上げながら諭すように言う。
その間に龍雅は次の一手を打ったのだが、さくらの次の一手で、龍雅の顔に焦りが生まれた。
次の一手を試みるが、あっという間にさくらに先を越される。
そして。
 
「だって、キミたちの青春は、まだ始まったばかりなんだからさ。――はい、チェックメイト」
 
さくらの駒が、確実に龍雅のキングを捉えていた。最早逃げ場も逆転の一手も残されていない。
 
「初黒星か。……参りました」
 
「やったー!」
 
この勝負で、さくらは初めて龍輝に――龍雅に勝利した。
初勝利の喜びはひとしおだったようで、子供のようにはしゃいで喜んでいる。
 
「腕を上げたな」
 
「まぁ、さくらは俺とやった時も、対戦する度に強くなりましたからね」
 
清隆も対戦経験があるのか、なかなか痛い経験だったらしく、苦い顔をしながら思い出を語る。
小さい頃から博士号を持っていた程の研究家だからこその、敗北を糧にした最後の勝利なのだろう。
 
「ねぇ、龍雅」
 
突然、立夏に呼びつけられる。
その声に反応して、龍雅は立夏の方を見るが、その表情は何かを躊躇しているような、不安そうな表情だった。
 
「ちょっと、来てくれる?」
 
そういうなり、有無を言わせず龍雅の服の袖を引っ張ってみんなから少し離れた場所まで連れて行ってしまった。
 
「龍雅さん、絶対に上手く行きます」
 
彼らが去った後、清隆は1人ひっそりと呟いた。
 
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みんなから少し離れたところで、立夏は立ち止まり、龍雅に向き直った。
そして決心したのか、龍雅の顔をしっかりと見据える。
 
「今日かなって思ったから」
 
切り出しは突然だった。
 
「こんなことを言うのは、今日しかないって思ったから、もう1度、言わせてほしい」
 
立夏は真剣そのものだったが、龍雅はその意志を曲げなければならなかった。
これは、立夏にも同じことがいえるが、自分の意志を貫き通すためである。
 
「立夏、お前が言うのは筋違いだ。俺から言わせてくれ」
 
「――っ!?」
 
龍雅の言葉に立夏は驚くが、すぐに表情を引き締めて反論する。
 
「ダメ。ずっと言おうって思ってたから」
 
「違う。俺はこう言った。もう1度俺を好きにしてみせろと」
 
「だからそのために今こうしてる」
 
「お前の試みは既に成功しているんだよ」
 
立夏は、唖然としたように立ちすくんだ。
突然の言葉は、立夏の心に突き刺さるように溶け込んでいった。
 
「やっぱり、という言葉を使うのはおかしいだろうけど、俺はお前がいる世界を欲しがっていた。お前がいて初めて世界が明るく見えた。俺は、お前のことが、好きだ」
 
自分の意志で言葉にした、2度目の告白。
今度は正しく伝わった。何も迷うことなく、ただ自分の心と向き合って、立夏の心と向き合って、自分の想いを曝け出すことができた。
 
「龍雅……」
 
驚きと嬉しさで、立夏は笑顔を浮かべていたが、その瞳は涙を含んでいた。
龍雅は遠慮がちに切り出した。
 
「少しだけ、抱き締めてもいいか……?」
 
龍雅は1歩踏み出すと、立夏は龍雅の胸に体重を預ける。
柔らかくて華奢な体を包み込むように、腕を背中に回して優しく抱き締める。
追い求めていたものが、ようやく腕の中に納まったような気がしていた。
弓月龍雅として自我が形成されてから、ずっと曇り硝子の向こうを見続けて、空の向こうにあった答えを、ようやくこの手に掴んだ。
満たされて、満足して、そっとその腕を放す。
 
「ありがとう」
 
「こちらこそ。んじゃ、みんなも待ってることだし、そろそろ帰りましょうか」
 
立夏が駆け足でみんなのところに戻る。
 
「早く来なさい、置いてくわよー!」
 
先程のさくらのようにはしゃいで、嬉しそうに弾みながらこちらを振り向く。
転倒しないかと冷や冷やしていたが、それも杞憂だったようで――
 
 
――ドクン、と、世界が揺れた。
 
 
時間が停止していた。
少し離れた立夏が、表情一つ変えず、バランスもおかしいのに、全く動かない。
その時、そこにいないはずの、もう1つの生命が姿を現した。
 
「久しぶりだな、弓月龍雅。そして――芳乃さくら」
 
純白の白衣、金のロングヘアを後ろで縛ったそれは、腰のあたりまで伸びていた。
その冷たい瞳は、何を見据えているのか。
ただ、そこには、優しさなど存在しなかったことだけは、確かである。
かつて自分を育てた、息子のような存在に向けた視線でも。
 
「――シグナス・ルーン」
 
背後から足音。
誰が来たのかも龍雅には分かる。
 
「廃工場の時以来だね。あの時はキミが誰なのか分からなかったけど、今ならはっきりと分かるよ」
 
さくらもまた、その男を相手に、戦意を迸らせていた。
なにやらよからぬ気配を感じ取っているらしい。
 
「さくら、迂闊に手を出すな。この人は本当に危険だ」
 
「分かってる。だってこの人や、この人の発動した停止魔法からは、|全《・》|く《・》|魔《・》|力《・》|が《・》|感《・》|じ《・》|ら《・》|れ《・》|な《・》|い《・》から」
 
さくらの言っていることは正しかった。
今、目の前の男は、神の力を得たも同然の力を所有していたのだ。
そしてその矛先は、間違いなく彼らに向けられていて。
その目的は、龍雅は明確に理解していた。
 
「さて、世界を正そう。実験の終末は近い。プラン名、『凍結する世界の終焉(エターニティ・クリア)』、最終フェーズへと移行する」
 
その白き魔手は、何の慈悲もなく、龍雅たちに向けられる。
弓月龍雅の日常は、遂に終わりを告げた。